フガの生涯

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フガとは風雅のことだ。しかし、現在の天草でフガと言えば、変人というくらいの意味でしかない。今日の食い物をどうしようかと思案しているのに、月を愛で、梢で囀る小鳥を愛でる人は、フガでしかない。
千年の月日は、風雅をフガに変えてしまった。

 彼は、地域の人からフガ、またはフガ人と呼ばれた。ぼくよりも12歳年上だった。当時、たこ焼き屋をしていたおれのところに来ては、いつも大声で話していた。
 元長野県知事田中康夫氏が天草に来たことがあった。路木ダムの反対運動をしていた仲間のだれかが渡りをつけたのだろう。公民館での集会で、田中氏は言った。
「地域を変えていくのは、よそ者と若者と、それからバカ者です」
おれはバカ者というところでフガのことを思った。

 そう思ったことを思い出した。
 先週の日曜日の葬式から一週間が立った。雨が降り始めた。

 フガは1939年に生まれた。生きていたら2019年の今年、80歳になっていたはずだ。
 家は、基本、農家だがその傍らで酒を商っていたときいた。しかし、フガのじいさんは酒を売るよりも自分で飲んでしまう方が多かったとも言っていた。フガには、じいさんが囲炉裏に座って酒を飲んでいる光景しか記憶がない。フガはいつも、うまそうに酒を飲んでいるじいさんを見ていた。
フガが10歳になったとき、じいさんが盃を持ってきた。地元の焼き物屋に頼んでつくってもらったもので、フガのマイ盃だった。
 フガはそれ以来、酒を飲み続けた。70歳になるまでだから60年飲み続けたことになる。しかし、フガは70歳のとき、糖尿病と診断された。酒を断って病院通いが続いた。
                                        フガは、現在72歳だ。しかし、この2年のあいだにフガの糖尿病は奇跡的に改善した。昨年の12月の検査でもほぼ正常値に戻っていた。実際、この1月の半ばに会った時も、糖尿病から生還したのだと大声で自慢していた。
 1月21日の土曜日の夜におれの携帯電話が鳴った。フガからだった。具合が悪いのだという。胃になにかがつっかえたようで食べ物が通らない。おれは明日、行く、と伝えた。

 フガはベッドに寝ていた。いかにも、しんどそうだった。短い時間、話をした。フガはやりかけの仕事のことを気にしていた。フガの紹介でおれたち家族がほぼ8年間住んだ家の改修工事をやっていたのだ。この家は、貧乏なおれたちのためにフガの口入れもあって、家賃は、年額2万円だった。あと2,3日で終わるんだがと言った。どうもその仕事の締めくくりをおれに頼みたい口ぶりにも聞こえた。
 入院した方がいいと思うけど。おれはそういって、別れた。
 水曜日の午後、もう一度フガの家を訪ねた。家の明かりは消えてひっそりしている。てっきり入院したものだと思っていた。フガの娘は看護士だ。地域の病院に勤めていて、両親と一緒に暮らしている。なにか異変があれば娘がまず気付くだろう。
木曜日の夕方、その娘から電話があった。父が今日亡くなりました。おれはあわててとんで行った。
 

夕方、近所のスーパーに買い物に行った。その際、カミさんの弁当箱に入れて、ちょっとしたおかずや漬物を入れるためのカップが少なくなっていたのを思い出して買った。おそらくこのことが呼び水となって思い出したのだろう。
 帰り道、フガの弁当の話を思い出していた。

 フガは、高校生になった時に親から川向うにある畑をもらった。その意味は、この畑から収穫する作物を金に換えて高校の授業料に充てろ、ということだった。
フガは実践した。朝起きると、「自分の畑」に行った。フガはここで毎朝作物を収穫する。収穫した作物を自転車の後ろの荷台に積んで、市場へ向かう。市場までは15キロある。市場から学校までが、2キロ。
フガは、毎朝、自分で弁当を作った。弁当箱にぎゅうぎゅうに飯を詰める。それから蓋にも飯を詰めて、それを左右からバシッと合わせる。そして、市場に野菜をおろしてから学校へ行く。学校で授業が始まる前にまず弁当を出す。弁当箱の蓋に詰めた飯を食べる。これが、フガの朝飯だった。
フガが通っていたのは、農業高校だった。地域の進学校にも行ける学力はあったが、フガは農業高校を選んだ。
フガは高校卒業後、農機具メーカーに就職する。ところが、何年も経たないうちに父親が稲の収穫作業中に倒れて死んだ。フガには弟がいて、当時、大学生だった。その弟の学費の面倒も見なくてはならない。フガは、会社を辞めて天草に帰った。

 

 時間が錯綜していて、すみません。とりあえず、今夜はここまで。