曇天
まったく、近頃、太陽を見ることが少なくなってしまった。
雨は降ったり、止んだりで憂鬱このうえない。
牧水が歌ったのもこんな時期だったのだろう。
降るべくは降れ
照るべくは照りいでよ
今日の曇りは我を狂わしむ
大江で塩づくりをしていた「まっちゃん」が亡くなって一年が過ぎた。
人は死に対してあらがえない。いや、あらがえないのは人ばかりではない。以前紹介した小さな赤ネコも5月末に死んだ。タキの子どもは2匹になった。
その2匹。
手前の白っぽい子ネコがチャップで、三毛をジャミと名前を付けた。
曇天の空の下、小さな小さな希望だ。
ヤモリ見参
今年は、桜の開花が全国的にも異常に早かった。
今日は4月3日。表にしばらくいると汗ばむくらいだ。山の木々も新緑におおわれてきた。すでに春ではなく、初夏と呼ぶのがふさわしいようだ。
40回目の頌徳祭
今年が40回ということは、第1回は1981年ということだろう。
娘が生まれたのが、1978年。それから一年くらい経ったころだったか、当時住んでいた埼玉の公団住宅で、天草の苓北火電建設反対運動の中心だった松本豊秋さんのハンスト中の死を伝える朝日新聞の記事を見た。その時に思った。もし、将来、天草に帰ることがあったら何かぼくにできることをしたい、と。
天草に帰ることになったのは、それから10年の後だった。
娘は小学校を卒業して、中学生になる時で、下の息子は小学2年生。以来、30年が経とうとしている。
「40回頌徳祭やってて、桜が咲いたんは初めてじょん」と哲ちゃんが言う。
彼らのほとんどが40年前には30歳になったばかりのころだ。
毎回熊本から参加する中島クンは、そのころに結婚した。結婚式は、団結小屋。
「何が大変だったといって、みんなが注いでくれる盃を飲み干すのが一番大変だったよ。参加者が50人からいるんだから」
時は流れた。静かに、このうえなく濃密に。
タヌキネコ
このネコ、エサをねだりにやってくる。お腹が大きい。出産の日が迫っているように見える。
ある夜、タヌキのエサ場のあたりで初めて見かけた。懐中電灯で見て、小さいタヌキと思っていた。翌日の昼間に再び現れた。そこで初めてネコだと分かった。
「タヌキネコ」、それがこのネコの呼び名だ。
それはあんまりだからと、「ターキー」はどう?と言ったら、すかさずカミさんが
「昔、そんな女優さんがいたわね」ときた。そう、いたのだ。ぼくもターキーと言った瞬間、思い出していた。ターキーは水之江滝子といったか。名前の漢字はあやふやだが確かにいた。
「いっそ、おタキさんは、どう?」
「♪いきなくろ塀 見越しの松に、と歌いたくなるよ」
「それは、おトミさんでしょ」
タヌキネコの写真をもう一枚。
春に
3・11から10年が経った。
春は、巡る。
わたしたちは記憶し続けねばならない。
同じ時間を生きたものとしての記憶。