Wの発音

 昔、高校生のころだ。国語の担当だった植村先生は言った。
 「天草には京言葉が残っている。それは言葉だけでなく、発音も含めて残っている」
 それを聞いて、ぼくはガラパゴス諸島を思い出した。進化の系統樹から切り離されて、今なお、何千年、何万年前の姿のままに生き続ける生き物たちの姿が浮かんだ。
 植村先生は続ける。
 「関東人は、「お」と「を」の発音の区別ができない。でも、君たちは普通にやっている。古代の日本人は、今よりももっと豊かに発音していた。IとWIやEとWEもちゃんと区別して発音していただろう」
 「お」と「を」は、ローマ字で表記すると、OとWOだ。そういえば、父親の世代は、運動会をUNDOUKWAIと発音する。会社ではなくKWAISHAだ。父親世代からおよそ30年遅れてぼくらがいるが、ぼくらにはその発音は継承されていない。
テレビかもしれない、と思う。小学一年生の時に初めてテレビを見た。現天皇の結婚式が放送された。町で何台もないテレビの前には人だかりができた。この日から東京オリンピックのあいだまでに、テレビは急速に普及していった。東京オリンピックの年、ぼくは中学一年になっていた。
たしかに、テレビからは歯切れのいい言葉が流れてきた。それは、東京語を母体にした「標準語」だという話だった。
おそらく、少なくともこの天草では、この時一つの文化の継承が断たれた。進化の系統樹の一本の枝は、1960年代の天草で終わった。
ぼくはずっと口下手だった。今も変わらない。「滑舌」などとは程遠い。一つの言葉を発するのに時間がかかる。たぶん、Wの発音をどうしようかといつも迷っているのだ。