ある死

 フガは1939年に生まれた。
 家は酒屋をやっていたときいた。しかし、フガのじいさんは酒を売るよりも自分で飲んでしまう方が多かった。じいさんが囲炉裏に座って酒を飲んでいる光景しかフガには記憶がない。うまそうに酒を飲んでいるじいさんを見ていた。
フガが10歳になったころ、じいさんが盃を持ってきた。地元の焼き物屋に頼んでつくってもらったもので、フガのマイ盃だ。
 フガはそれ以来、酒を飲み続けた。70歳になるまでだから60年飲み続けたことになる。しかし、フガは70歳のとき、糖尿病と診断された。酒を断って病院通いが続いた。この2年のあいだにフガの糖尿病は改善した。昨年の12月の精密検査でもほぼ正常値に戻っていた。実際、この1月の半ばに会った時も、糖尿病から生還したのだと大声で自慢していた。
 1月21日の土曜日におれの携帯電話が鳴った。フガからだった。具合が悪いのだという。胃になにかがつっかえたようで食べ物が通らない。おれは明日、行く、と伝えた。
 フガはベッドに寝ていた。いかにも、しんどそうだった。短い時間、話をした。フガはやりかけの仕事のことを気にしていた。あと2,3日で終わるんだがといった。どうもその仕事の締めくくりをおれに頼みたい口ぶりにも聞こえた。
 入院した方がいいと思うけど。おれはそういって、別れた。
 水曜日の午後、もう一度フガの家を訪ねた。家の明かりは消えてひっそりしている。てっきり入院したものだと思っていた。フガの娘は看護婦だ。地域の病院に勤めていて、両親と一緒に暮らしている。なにか異変があれば娘がまず気付くだろう。
木曜日の夕方、その娘から電話があった。父が今日亡くなりました。おれはあわててとんで行った。
 

フガとは、風雅からきたものだろう。千年の月日は、風雅をフガに変えてしまった。
 彼は、地域の人からフガ人と呼ばれた。変わり者というほどの意味だ。ぼくよりも12歳年上だった。いつも大声で話した。
 元の長野県知事田中康夫氏が天草に来たことがあった。地域を変えていくのは、よそ者と若者と、それからバカ者です。おれはバカ者というところでフガのことを思った。
 そう思ったことを思い出した。
 先週の日曜日の葬式から一週間が立った。雨が降り始めた。