ネコの居酒屋

f:id:Kurosuke:20200924223206p:plain

ネコの居酒屋

 

    猫の居酒屋

 

 アンコとキナコがどうしてもと誘うから行ったのだが、どうも最初からいやな予感がしていた。

「いろいろとお世話になっていますから」と、アンコがきちんと前脚をそろえて言うものだから、ついうなずいてしまった。

「それじゃ、行ってみるか」

「ありがとうございます。きっと気に入ってもらえると思います」

「そうですよ。今夜はニャーと騒ぎましょう」

キナコはもうはしゃいでいる。

アンコの方は黒ネコで、キナコの方は赤キジのネコだ。

 

夕方、二匹について家を出て歩き始めた。だいたいがネコは人間の作った道を歩かない。アンコとキナコもそうで、家の前の道路を横切ったと思ったら、前の家の生け垣の間をすり抜けていく。駐車場と空き地を通り、神社の脇を通り抜けた。

すべての家が背中合わせに建っているような路地裏を速足で歩く。入り組んだ路地のなかほどに一本の電柱が立っている。それも黄色い電柱だ。アンコとキナコがもう待ちきれないというように駈け出して、電柱のところで左に曲がった。おれにはそこで、アンコとキナコがフニャリとふやけて溶けたように思えた。

後ろを振り返って、やり残したもののことが頭をかすめたが、もう、いい。何とかなるだろう。おれも二匹に続いて黄色い電柱を曲がった。

曲がった途端に目の前に居酒屋があった。アンコとキナコが笑顔で待っている。

「きっと大丈夫だと思っていました」

アンコが、笑いながら言う。

「わたしたちを信じてくれてありがとう」

キナコが頭を下げた。

 

居酒屋は、暖簾がかかり、提灯に明かりがついている。提灯には、ひねくれた字で「うろん」と書いてある。

うろん?おれは、この「うろん」が気になった。いったい、「うろん」とはなにか。あるいは、「うどん」と表記すべきところを、まちがったのか。怪訝そうなおれの顔を見て、アンコが説明する。

「ネコは濁音の発音が苦手なんです。ま、ネコの方言と思ってください」

まるで、アルファベットのHを発音しないフランス語みたいな言い方だ。しかし、ここまでついてきた以上、帰るわけにはいかない。第一、一人で引き返しても素直に帰れるとは思えない。

アンコとキナコに続いて店に入った。

「いぃぃらっしゃいませー」

突然、オペラ歌手のような声が響く。ぎょっとして声の方を見ると籠に入ったオウムだ。こんなに高らかに、一流の声楽家のように、オウムがしゃべるか。いきなり顔面にカウンターパンチをくらった感じだ。

アンコもキナコも慣れた様子でテーブルの客に会釈しながら店の奥まで進み、カウンターの椅子に座った。真ん中におれの座る椅子を開けてある。

「オヤジさん、串焼きとビールね。三匹分」

キナコが慣れた様子で注文する。おれも三匹のうちの一匹になった。

オヤジがギロリとおれを見た。なんだか猫ににらまれたネズミの気分だ。

 店内は、赤いバンダナをしたオヤジが仕切っている。右目の上に傷がある。バンダナに隠れた部分まで傷は続いているようだ。

「ホイ」と間髪をいれず、オヤジが串焼きとビールを差し出す。この間、三秒だ。

 皿の上にはバンザイの格好をしたカエルが串焼きになっている。ビールがちょっと気になった。泡が大きいのだ。まるで、シャボン玉みたいだ。

 「それじゃ、乾杯しましょうか」

 アンコがビールのジョッキを持ち上げた。

 「かんぱーい」

 キナコがおれのジョッキにカチンとあてた。

 「なんだかキツネにつままれた感じだが、とにかく乾杯」

 「キツネじゃなくてネコでしょ」

 アンコが片目をつむった。

 「そうだった。ネコに乾杯」

 おれはビールを飲んだ。一口目でクラリとした。相当に強いビールのようだ。味は、梅酒と甘酒と塩こうじを混ぜ合わせたような、なんとも複雑怪奇な味で、説明のしようがない。しかし、おいしいかまずいかといえば、これがおいしいのだ。

カエルの串焼きも不思議な味と食感があって、これは素直にカルチャーショックだ。ネコたちはこんなうまいものを飲んだり食ったりしているのか。

「どう、おいしいでしょう」

キナコがおれを見た。いつも見ているキナコより、どことなく上品に見える。目はくっきりとしているし、鼻はつんと高い。そう、美人だ。しかし、ネコが美人だなんて、おれは酔っ払ったか。

「どうしました。頭なんか振って」

今度はアンコがおれの顔をのぞきこむ。

「いや。なんか、すべてが感動でね。今までぼんやりとしか見えていなかったものが、はっきり見えるような気がして」

「それはよかった。きっとこうなると思っていたんですよ」

アンコの黄色い瞳の色が、限りなく深い深淵に見える。黒い深淵ではなく、黄色い深淵。

 

カウンターの上には立派な水槽があって、無数の金魚が泳いでいる。金魚のウロコは見える角度によって緑や青、金色に変化してみえる。

水槽の脇には「さかな・さしみ」と書いた札が立てかけてある。「うろん」と同じようにひねくれた文字だ。

「さかなというのは、あの金魚のことか」

「そうです。うまいですよ。食ってみますか」

おれが迷っていると、

「オヤジさん、一匹、刺身にして」

そう言って、アンコは刺身を注文した。

ネコに食えてヒトに食えぬものはないだろう。大江のマッちゃんは、「魚に食えて人間に食えないものはない」と言って、釣り餌のオキアミをてんぷらにして食っていた。

 オヤジは、水槽に手を突っ込むと泳いでいる金魚をつかんだ。で、そいつをまな板の上でトントンと切る。皿に盛って「ホイ」と差し出す。やはり、三秒だ。一、二、三のタイミングで出てくる。

 食べてみる。やわらかいと思っていたら、意外にコリコリしていておいしい。生臭みもない。

 「頭、ちょうだい」

 キナコが金魚の頭をつまんで持っていった。

 「おれは尻尾でいいや」

 アンコは尻尾を口に放り込んだ。

 

「そろそろ居酒屋トラの名物、うろんはどうですか」とアンコがおれの顔を見た。

「そうか、ここは居酒屋トラというのか。うろんは、ようするにうどんなのだろう」

「トラのうろんは、やっぱり、うろんですよ。初めての方には七・三くらいがおすすめです」

「なんだ、七・三って、焼酎のお湯割りみたいだな」

「焼酎だって。あんな下品なものは飲まないわよね、アンコ」

キナコがアンコに同意を求める。

「そうだな。ただ、酔えばいいってものじゃないからな」とアンコが答える。

 「そうかね。酒って酔うために飲むんだろ?」

 「だから下品だっていうの。とくに焼酎は、ただ酔っぱらうだけでしょ」

 「そりゃそうだけど」

 「あのね、お酒というのは、食べ物をおいしくするし、生きることを楽しくするし、これまでを振り返るし、明日の計画を立てるし、なにより明日に向かって勇気をくれるし、それでもって、おいしいってものなの」

 キナコは一気にしゃべった。あの、舌っ足らずのキナコが、実に饒舌になっている。

 「わかった。それじゃ、おれも下品な焼酎は止めることにする。それでどんな酒だったらいいのかな」

 キナコは腕組みをして目を閉じた。

 「そうねえ。極上の日本酒くらいかしら。天然醸造で、大量生産してないもの。それも関東から北の秋田とか新潟、ね」

 

 聴いていると、まわりでも「七・三」とか「六・四」とか声がする。中には「オール」という声もある。

「うろんは、やっぱり六・四くらいがうまい」とアンコとが言う。

「なんのことだ」

「うどん麺とミミズの割合ですよ」

 アンコはさらっと言う。さらに

「ミミズには、アカミミズと極太シマミミズがありますがどれにしましょう」ときた。

 

思い出してもぞっとするが、その時はうまいと思って食ったのだ。そう、たしかにうまかった。