ネコの居酒屋
猫の居酒屋
アンコとキナコがどうしてもと誘うから行ったのだが、どうも最初からいやな予感がしていた。
「いろいろとお世話になっていますから」と、アンコがきちんと前脚をそろえて言うものだから、ついうなずいてしまった。
「それじゃ、行ってみるか」
「ありがとうございます。きっと気に入ってもらえると思います」
「そうですよ。今夜はニャーと騒ぎましょう」
キナコはもうはしゃいでいる。
アンコの方は黒ネコで、キナコの方は赤キジのネコだ。
夕方、二匹について家を出て歩き始めた。だいたいがネコは人間の作った道を歩かない。アンコとキナコもそうで、家の前の道路を横切ったと思ったら、前の家の生け垣の間をすり抜けていく。駐車場と空き地を通り、神社の脇を通り抜けた。
すべての家が背中合わせに建っているような路地裏を速足で歩く。入り組んだ路地のなかほどに一本の電柱が立っている。それも黄色い電柱だ。アンコとキナコがもう待ちきれないというように駈け出して、電柱のところで左に曲がった。おれにはそこで、アンコとキナコがフニャリとふやけて溶けたように思えた。
後ろを振り返って、やり残したもののことが頭をかすめたが、もう、いい。何とかなるだろう。おれも二匹に続いて黄色い電柱を曲がった。
曲がった途端に目の前に居酒屋があった。アンコとキナコが笑顔で待っている。
「きっと大丈夫だと思っていました」
アンコが、笑いながら言う。
「わたしたちを信じてくれてありがとう」
キナコが頭を下げた。
居酒屋は、暖簾がかかり、提灯に明かりがついている。提灯には、ひねくれた字で「うろん」と書いてある。
うろん?おれは、この「うろん」が気になった。いったい、「うろん」とはなにか。あるいは、「うどん」と表記すべきところを、まちがったのか。怪訝そうなおれの顔を見て、アンコが説明する。
「ネコは濁音の発音が苦手なんです。ま、ネコの方言と思ってください」
まるで、アルファベットのHを発音しないフランス語みたいな言い方だ。しかし、ここまでついてきた以上、帰るわけにはいかない。第一、一人で引き返しても素直に帰れるとは思えない。
アンコとキナコに続いて店に入った。
「いぃぃらっしゃいませー」
突然、オペラ歌手のような声が響く。ぎょっとして声の方を見ると籠に入ったオウムだ。こんなに高らかに、一流の声楽家のように、オウムがしゃべるか。いきなり顔面にカウンターパンチをくらった感じだ。
アンコもキナコも慣れた様子でテーブルの客に会釈しながら店の奥まで進み、カウンターの椅子に座った。真ん中におれの座る椅子を開けてある。
「オヤジさん、串焼きとビールね。三匹分」
キナコが慣れた様子で注文する。おれも三匹のうちの一匹になった。
オヤジがギロリとおれを見た。なんだか猫ににらまれたネズミの気分だ。
店内は、赤いバンダナをしたオヤジが仕切っている。右目の上に傷がある。バンダナに隠れた部分まで傷は続いているようだ。
「ホイ」と間髪をいれず、オヤジが串焼きとビールを差し出す。この間、三秒だ。
皿の上にはバンザイの格好をしたカエルが串焼きになっている。ビールがちょっと気になった。泡が大きいのだ。まるで、シャボン玉みたいだ。
「それじゃ、乾杯しましょうか」
アンコがビールのジョッキを持ち上げた。
「かんぱーい」
キナコがおれのジョッキにカチンとあてた。
「なんだかキツネにつままれた感じだが、とにかく乾杯」
「キツネじゃなくてネコでしょ」
アンコが片目をつむった。
「そうだった。ネコに乾杯」
おれはビールを飲んだ。一口目でクラリとした。相当に強いビールのようだ。味は、梅酒と甘酒と塩こうじを混ぜ合わせたような、なんとも複雑怪奇な味で、説明のしようがない。しかし、おいしいかまずいかといえば、これがおいしいのだ。
カエルの串焼きも不思議な味と食感があって、これは素直にカルチャーショックだ。ネコたちはこんなうまいものを飲んだり食ったりしているのか。
「どう、おいしいでしょう」
キナコがおれを見た。いつも見ているキナコより、どことなく上品に見える。目はくっきりとしているし、鼻はつんと高い。そう、美人だ。しかし、ネコが美人だなんて、おれは酔っ払ったか。
「どうしました。頭なんか振って」
今度はアンコがおれの顔をのぞきこむ。
「いや。なんか、すべてが感動でね。今までぼんやりとしか見えていなかったものが、はっきり見えるような気がして」
「それはよかった。きっとこうなると思っていたんですよ」
アンコの黄色い瞳の色が、限りなく深い深淵に見える。黒い深淵ではなく、黄色い深淵。
カウンターの上には立派な水槽があって、無数の金魚が泳いでいる。金魚のウロコは見える角度によって緑や青、金色に変化してみえる。
水槽の脇には「さかな・さしみ」と書いた札が立てかけてある。「うろん」と同じようにひねくれた文字だ。
「さかなというのは、あの金魚のことか」
「そうです。うまいですよ。食ってみますか」
おれが迷っていると、
「オヤジさん、一匹、刺身にして」
そう言って、アンコは刺身を注文した。
ネコに食えてヒトに食えぬものはないだろう。大江のマッちゃんは、「魚に食えて人間に食えないものはない」と言って、釣り餌のオキアミをてんぷらにして食っていた。
オヤジは、水槽に手を突っ込むと泳いでいる金魚をつかんだ。で、そいつをまな板の上でトントンと切る。皿に盛って「ホイ」と差し出す。やはり、三秒だ。一、二、三のタイミングで出てくる。
食べてみる。やわらかいと思っていたら、意外にコリコリしていておいしい。生臭みもない。
「頭、ちょうだい」
キナコが金魚の頭をつまんで持っていった。
「おれは尻尾でいいや」
アンコは尻尾を口に放り込んだ。
「そろそろ居酒屋トラの名物、うろんはどうですか」とアンコがおれの顔を見た。
「そうか、ここは居酒屋トラというのか。うろんは、ようするにうどんなのだろう」
「トラのうろんは、やっぱり、うろんですよ。初めての方には七・三くらいがおすすめです」
「なんだ、七・三って、焼酎のお湯割りみたいだな」
「焼酎だって。あんな下品なものは飲まないわよね、アンコ」
キナコがアンコに同意を求める。
「そうだな。ただ、酔えばいいってものじゃないからな」とアンコが答える。
「そうかね。酒って酔うために飲むんだろ?」
「だから下品だっていうの。とくに焼酎は、ただ酔っぱらうだけでしょ」
「そりゃそうだけど」
「あのね、お酒というのは、食べ物をおいしくするし、生きることを楽しくするし、これまでを振り返るし、明日の計画を立てるし、なにより明日に向かって勇気をくれるし、それでもって、おいしいってものなの」
キナコは一気にしゃべった。あの、舌っ足らずのキナコが、実に饒舌になっている。
「わかった。それじゃ、おれも下品な焼酎は止めることにする。それでどんな酒だったらいいのかな」
キナコは腕組みをして目を閉じた。
「そうねえ。極上の日本酒くらいかしら。天然醸造で、大量生産してないもの。それも関東から北の秋田とか新潟、ね」
聴いていると、まわりでも「七・三」とか「六・四」とか声がする。中には「オール」という声もある。
「うろんは、やっぱり六・四くらいがうまい」とアンコとが言う。
「なんのことだ」
「うどん麺とミミズの割合ですよ」
アンコはさらっと言う。さらに
「ミミズには、アカミミズと極太シマミミズがありますがどれにしましょう」ときた。
思い出してもぞっとするが、その時はうまいと思って食ったのだ。そう、たしかにうまかった。