おじさんの黄色いユリ

おじさんは独り暮らしだ。年は65歳。背が高く、筋肉質だ。以前住んでいたアパートが取り壊されることになって、引っ越してきた。うちの裏の6畳一間のアパートに住んで3年目をむかえる。緑のカーテンだといって、東側の窓の下に山芋を植えた。南側の出窓の下には、ゴ―ヤが小さな実をつけている。おじさんは草木が好きだ。入口の脇のわずかなスペースに土を入れて花壇をつくった。花壇には今年もユリが咲いた。


おじさんは、建設現場のとび職として長く働いた。おそらく、現場から現場へと渡り歩いていて、家族をつくるような生き方はしてこなかったのだろう。


たとえば、30年前、おじさんは30代だ。
このころ、日本中が熱病にかかっていた。ロッキード事件田中角栄は失脚したが、日本列島改造はまだ、生きていた。道路や橋や巨大な箱モノがつくられ、日本中が建設ラッシュに沸きかえっていた。1970年代の後半から1980年代のはじめで、まだ、昭和の時代だ。


我が家では娘が生まれ、埼玉の団地とまわりの公園と保育園で遊んでいた。
その娘が一歳を過ぎたころだった。遠い埼玉の新聞に天草の記事があった。苓北火力発電所建設に反対していた松本さんの死を知らせるものだった。機動隊に守られて、苓北町議会は建設推進の議決をした。このことに抗議してのハンスト中の死だった。松本豊秋さん、59歳。「苓北町民の会」初代事務局長。以来、「苓北町民の会」には事務局長は置かない。


この年の秋には、もう一つ、悲しい事件があった。
1979年9月9日、在日朝鮮人3世の林賢一君が、マンションから飛んで、自殺した。賢一君は空手着を着ていた。「飛び降りて」ではなく、賢一君は「飛んだ」と、今でもぼくは思っている。
賢一君の死は、埼玉県上福岡三中事件として、全国に波及していった。NHKは、ドキュメンタリー番組『壁と呼ばれた少年』を制作、放映した。まだ、ジャーナリズムの誇りが残っていた。


天草では、それから間もなくして、町を二分した苓北火力発電所の建設工事が着工する。おそらく、おじさんは火電建設の仕事のために天草に来たのだろう。それ以来、おじさんは天草に住み続けることになる。
ぼくらも天草に引っ越した。1991年のことだ。
苓北火電は、1号機の建設が終わって、まもなく2号機の建設が始まった。そして、2号機までつくって工事は終わった。おじさんは50歳代になっていた。昭和が終わり、平成と呼ばれるようになってすでに何年も経っていた。


裏のアパートに住むようになった頃、おじさんはシルバー人材センターで働いていた。夏は、プールの監視員の仕事があった。炎天下のプールサイドは、さすがにきつい、とこぼしていた。
暮れには近くのスーパーで会った。スーパーの制服を着て、段ボールの荷物を運んでいた。よっ、と肩をたたかれた。


おじさんの花壇には、白いユリが咲き、おくれて、黄色いユリが咲いた。まだ、つぼみのユリもある。
つぼみのユリは、ほのかに赤い。