獣医の悟郎さん1

 チビスケの頬がまた化膿して腫れた。
 天草から熊本市内に拠点を移した獣医の悟郎さんに電話したら、今日、そっちに行くから寄ってみるということ。2時ごろになるというので待っていた。
 悟郎さんは2時きっかりにやってきた。袋いっぱいのナスを持って。
 「まだ、ナスがあるんですか」
 「わしの畑では雪が降るまである」
 先月もらったものよりいくぶん小ぶりにはなっているが、立派なナスだ。
 「ネコちゃんはどこかな」
 「探してきます」
 「あ、それから、洗濯ネットがあったら、ネットに入れてきて」
 チビスケは陽のあたる窓のそばにいた。洗濯ネットを持って近づく。異変を感じたチビスケは逃げる。捕まえて入れようとするが、チビスケが大きすぎて洗濯ネットに入らない。無理やり押し込めてチャックを閉めようするが、こんどはチャックがしまらない。チビスケが怒りだした。
 「そのままでいいから抱いといて」
 怒り続けるチビスケの背中に注射。
 「さあ、もういいよ」
 チビスケは一目散に走り去った。ここまで10分。

 悟郎さんは、話したそうな様子だ。お茶をいれる。
 「この前、市役所の秘書課に行った。そこで秘書課長に、大体、あんたらはまちごうとる、と言ってやった。二つの説があるわけじゃなかと。史料の読み方がめちゃくちゃだから、とんでもなか結論が出てくる、と」
 二つの説とは、〈天草学林〉が河浦と本渡のどちらにあったか、ということだ。たしかに5,6年前に論争になった。そして、悟郎さんは、今も〈天草学林〉本渡「説」の中心人物だ。
 1500年代後半に天草にキリスト教がはいってきた。1589年には、「天正の天草合戦」といわれる戦が起こる。秀吉の命を受けた小西行長加藤清正が、天草に攻め入った。本渡城と志岐城は落城する。
このあとだ。天草のキリシタンは、復活する。少年使節団の4人が宣教師とともにヨーロッパから帰ってくる。日本ではじめて、キリスト教伝道の組織がつくられ、その中心に天草学林・コレジオが置かれた。コレジオでは、少年使節団が持ち帰ったとされる活版印刷機がフル稼働し、天草版『イソップ物語』など多くの書物が出版され、文字通り、学問と文化の中心となった。
「文章には主語と述語がある。ウグイスはホー、ホケキョと鳴くが、ホケキョ、ホーとは鳴かん。でもな、たまに主語のないものがある。命令文だ。本渡城落城の後、小西摂津の守は、天草種元、ドン・ミゲルだな、その種元はじめ多くの百姓の前で読み上げた。
<以上。申しおかれし候。本渡の儀は・・・>
こう始まった。以上といって、あとから中味を言う。ここをまず、勘違いしている。小西摂津の守は、この時、種元はじめ天草の主だった豪族に命令書を伝えたのだ」
お茶を追加した。