獣医の悟郎さん2


悟郎さんの話はまだ続く。
「いったい、だれが悟郎さんの「説」に反対しているんですか。その中心人物はだれですか」と聞いてみた。
「そりゃ、善久だな。善久ときたら、悟郎の言うことは正しい。しかし、やっぱ、コレジオは河浦だ、と言う。一足す二は三だと認めておきながら、最後の結論で、いや、やっぱり五だったとなる。わけが分からん」
「何のために、ですか」
「一つは金だな。二つ目は、名誉、かな」
「名誉は分かる気もするけど、金、というはどういうことですか」
「文化協会というのがある。善久の腰巾着のようにしていた万五郎は、民俗資料館の館長に収まった」
「ふうん、万五郎さんはひょうひょうとしていてそんなふうには見えないけど」
「前に、鈴木三公像の問題で集会をしたことがあったろう」
あった。鈴木三公とは、鈴木重成(しげなり)、鈴木正三(しょうさん)、鈴木重辰(しげとき)のことだ。天草・島原の乱の後、この三人が善政を行い、天草を復興したとされてきた。文化協会が中心となって、鈴木三公像建立期成会を作り、寄付金を集め、像の製作を発注した。ところが、集まったお金では足りないことが分かった。そこで期成会は、市に泣きついた。この市のアホ市長は、天草の島民のすべてから一律に不足分を徴収しようとした。「報恩をかたちに」というのが、この時の期成会の合言葉だった。このことを知って、ぼくら(ぼくとカミさん)は当時住んでいた有明町に監査請求を出した。本渡では、植村さんが監査請求を出した。
集会は、こんな時期にもたれた。このとき、期成会の事務局を担当していたのが、万五郎さんだった。
集会には、善久も万五郎さんも来ていた。
「あの時、万五郎はおれのところへ来てこう言った。<わしゃ、ばかですけん>。まったく、なんというやつだ」
その記憶はおれにもある。
悟郎さんは、このあと史料を片手に天草市議会で熱弁をふるった。悟郎さんは、20年以上にわたって市議会議員でもあったのだ。
結局、悟郎さんの踏ん張りで、いま一歩のところまで来ていた期成会のもくろみは外れた。三公像はできたが、最初予定されていた市有地ではなく、信用金庫の駐車場の隅に建てられた。
「久しぶりにこんな話ができた」
悟郎さんは玄関で靴を履きながら言った。
時計は4時になろうとしていた。