台風の朝

猛烈な台風が近づいている。

台風9号が通り過ぎたのは、つい先日のことだ。

8号からだから、まるで「ホップ、ステップ、ジャンプ」だ。当然、最後のジャンプが最も強烈ということになる。

ネコたちは珍しく小屋の屋根にいる。このあと風雨が強くなったら屋根の下の梁の隙間から小屋の中へと避難する。今は、その練習だろう。

 

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ミッケ一家

以下は以前書いた台風のお話。 

          (1)

 

台風が近づいている朝。雨こそ降っていないが、雲は南から北へ猛烈な速さで飛んでいる。

中学の校門で、理科の教師が、もう、うれしくてしようがないといった満面の笑みでニコニコしている。

「おい、おまえら」と彼は生徒の一団にいった。

「なんとなくウキウキしないか」。

みんなが戸惑っていると、待ちきれないというように彼は続ける。

「さっきな、気圧計を見たら995ヘクトパスカルだった。1000を切ったんだぞ。普段、一気圧がどれくらいか知ってるか」

「1013ヘクトパスカル」生徒の一人。

「じゃ、高気圧は」と理科の教師。

「1020前後だと思います」

「よくいった。とくに前後というのがいい。高いというのは、周りにくらべて高いということだ。これ以上が高気圧という数字の線引きはない」

理科の教師は、名前をトリサキという。漢字で書くと鳥崎、つい、トリザキと読みたくなる。「トリザキ先生」と呼ばれるたびに、そうじゃない、私の場合、濁らないのだと訂正する。

「台風が近づくとなんでウキウキするか。それはな、気圧が下がるからだ。普段、われわれは1020前後の気圧で押さえつけられている。それが、この時ばかりは気圧が一気に30も40も下がる。頭は軽くなり、心はおどりだす。どうだ、わかるか」

「先生、そろそろホームルームの時間ですが」

「いいじゃないか。台風が近づいているんだ。どうせ、今日は休校になる」

休校という言葉が生徒の間に小さな不安とうれしさの波紋を広げていくようだ。

「あわてるな。それより今日はおれと一緒におもいきり台風を満喫しないか」

台風を満喫するって、なんだ。

早く教室に行って、「今日は休校です」と担任の声を聞いて家に帰りたい気持ちもあったが、「台風を満喫しないか」と誘うトリサキ先生の魅力が勝った。

「よし、理科室に来い。なに、学校では家に帰ったと思っているし、家では学校に行ってると思ってる。心配することはない」

あぁ、神様。思わず祈りたくなったよ。

結局、理科室へは、イクオとモモコ、それにおれを含めて三人の生徒が行くことになった。帰り道が同じ方向だったから、この先、台風本番の中を帰ることになってもまとまって帰れる。あんまり意味があるとも思えないけど。

 

おれたちが理科室に入るなり、大粒の雨がガラス窓を打った。水滴は見る間に窓を覆い、外の世界は乳白色に包まれた。トリサキ先生はラジオのスイッチを入れた。それから机の上に日本地図を広げる。

台風15号は午前8時現在、鹿児島市の西150キロを時速25キロで北北東へ進んでいるものと思われます。中心付近の最大風速は45メートル、瞬間最大風速は60メートルに達するでしょう。なお、台風の北東側350キロ、南西側500キロでは風速15メートル以上の強い風が吹いています。中心付近の気圧は945ヘクトパスカル…」

トリサキ先生の目の色が変わった。

「おい、945だとよ」

猛烈な台風が、間違いなく近づいている。モモコの顔が一瞬緊張した。

トリサキ先生は、地図の上に8時現在の台風の位置を赤のマジックで書き入れた。そして、北北東の方向に線を引いた。

「直撃コースだ」

トリサキ先生はうなった。

鹿児島市沖の現在位置からここまで約200キロだ。台風は時速25キロだから、到達は・・」

「8時間後です」とイクオが言った。

「そうだ。8時間後だ、計算上はな。しかし、すでに9時に近い。それに、台風は、北上とともに速度を速める。今が9時として、台風の速度が35キロに上がったとすれば、どうだ、何時だ」

イクオが計算を始める。イクオは数字に強い。人間計算機だ。

「およそ5時間後です」

そのとき、理科室のドアが激しく開いた。風にあおられたのだろう。

いや、飛び込んできたのは、養護のタナカ先生だった。

「トリザキ先生、なにをしているんですか。全校避難ですよ」

「ああ、タナカ先生。台風の観察会です。先生も一緒にどうですか。それに、トリザキじゃなく、トリサキ」

「そんなことはどうでもいいでしょ」

タナカ先生は濡れた髪をブルブル振った。ネコのように。

「避難といわれても、うちのぼろアパートよりここの方がよほど安全ですよ。それとも先生のマンションにご一緒できますか」

タナカ先生は仁王立ちになって、髪をかきむしった。

「あなたのことはどうでもいいんです。問題は子どもたちです。いったいどうやって家まで帰すんですか」

「ほう、どうでもいいときましたか」

「あなたは、どうでもいいと言ったんです」

なんか父ちゃんと母ちゃんの夫婦喧嘩のようだ。

「子どもたちは、ぼくが責任を持って家まで送ります」

「どう責任をとるんですか。暴風雨のなかですよ。家の瓦が飛んでくるかもしれない、看板が落ちてくるかもしれない。大きな木が倒れてくるかもしれない。自然の脅威の前では、人間の力なんて弱いものです」

「暴風雨の中を帰るとは言っていませんよ。イクオの計算では、台風の中心が通過するのが、5時間後です。今9時だから午後2時ごろですか。それから2時間後に帰ります」

「各家への連絡はしてあるんでしょうね」

「残念ながら、まだです」

「台風の通過が午後2時として、帰るのはそれから2時間後でしょ。昼食の手配は?」

「残念ながら、これからです」

タナカ先生は唇をかみしめた。

「食べるものは近くのコンビニでわたしが調達してきます。先生は職員室から子どもたちの家へ電話してください」

「アイアイサー。あ、それからこれ、持っていってください」

トリサキ先生は、ズボンのポケットから財布を取り出すと、そのままタナカ先生に渡した。

「それから」

「まだあるんですか」

「いえ、ぼくの車を使ってください。打たれ強い車ですから、こんな時にぴったりです」

まったく、この二人、どんな関係なんだろう。

 

タナカ先生が出かけ、トリサキ先生は職員室へ行った。

「なんか怖くなった」とモモコが言った。

「なんとかなるよ」

おれは当てもなくなぐさめる。

「なんとかするしかないよ」

イクオが冷静に言った。

校庭のクスノキの枝が大きな音とともに裂け、地面に落ちた。モモコは耳をふさいだ。

「タナカ先生が心配だな」

「タナカ先生なら大丈夫。はってでも帰るタイプだから。しっかり食料を抱いてさ」

一瞬、食料を抱えて必死に地面をはっているタナカ先生が見えた。

「帰りたいか」とイクオガ言った。

「帰りたいけど、帰れない。今はそうじゃない?」とモモコ。

「そうだよな。どうだ、こんな時全然ちがうことをやろうか」

「ちがうことって何よ」

「トランプとか、花札とか」

「理科室にトランプや花札があるか」

「あるんだな、これが」

イクオはトントンと歩いて、試験管やらビーカーやらが行儀よく鎮座している棚の、三段ある引き出しの一番下を引いた。

「ほら、トランプ。ほれ、花札

「あれ、まあ」モモコがあきれていると、

「おれ、理科室の掃除当番だから」

イクオはすましている。

「よし、トランプで神経衰弱といくか」

「そうね。ババ抜きって雰囲気じゃないよね」

「わかった」

イクオはトランプを机の上に広げた。

風がうなった。ガラス窓がたわんだ。でも、ガラスは精いっぱい持ちこたえていた。

「さあ、言いだしっぺからめくろうか」

一枚目はハートの6。対角線上の反対側をめくる。ダイヤの10だ。

モモコが次にめくり、最後にイクオガめくった。みんなばらばらの数字だ。

「集中しないな」

イクオは机の上で両手を組むとその上に顎をのせた。

「ちょっと心配だな」

「タナカ先生が?」

「いや、トリサキ先生の方」

「だって、おれらの家へ電話するだけだろ」

「あまい。たとえばこうだ。トリサキ先生は、台風の観察会のことを校長先生に話す。すると、校長先生は、教育委員会に報告する。で、市の教育委員会は判断に迷って、県の教育委員会へお伺いをたてる。県の教育委員会は、こんな事例は聞いたことがない、といって、文部科学省へ対処を求める」

「大ごとだな」

「その大ごとの真っただ中にトリサキ先生はいる」

「どうしたらいいの」

「おれたちが無事、家に帰ることだろ」

「それはそうだが、もう一歩進んでというか、積極的解決策というか、今日の観察会をしっかりレポートにするんだ」

「トリサキ先生の株も上がる」

「よし、仕事を分担しよう」

モモコはラジオを聞いて、地図の上に情報を書き込む。イクオは、気圧計とにらめっこだ。おれは、窓から見える光景をスケッチする。

「さあ、開始だ」

イクオが宣言した。