昼間の月

五十年前、ここはミカン畑だった。さらにその前は、野菜畑だった。
この山が畑として開墾されたのは、おそらく明治にまでさかのぼるだろう。いや、船大工だったじいさんのころにはすでに畑だったから、開墾はさらにその先の時代なのかもしれない。
二月になったら、ジャガイモを植える。ジャガイモもを収穫したら、サツマイモを植える。サツマイモの収穫が十月から十一月。それから大根の種をまく。
しかし、この自然の循環を断ち切るようにしてミカンの木を植えたのは、父親だった。昭和三十年代の後半、日本中の温暖な地域でミカン栽培が奨励された。自給のための畑が次々にミカン園になっていった。そして、父親は、役場の職員だった。町の青年団を動員してミカンの苗木を植えるための、縦、横、深さが一メートルの穴が掘られた。青年団女子部は、ミカン穴に敷きつめるための草を刈った。
「たとえば五年後、ミカンの木が一本につき二百個の実をつけるとする。十個が百円で売れるとするとどうだ。百個で千円、二百個で二千円になる。そんなミカンの木を百本植えた。さて、いくらになるか」
小学生のおれは考えた。二千円×百本の計算が難しかった。
今、ミカンの木は一本もない。唯一残っているのがミカン園の隅に植えたハッサクの木だ。

戦後、私たちは豊かな暮らしを手に入れたと思った。しかし、それは半世紀も続かなかった。おそらく、私たちが「豊かさの袋」に詰めたと思ったのは、幻想だったのだろう。これから先、そのことの後始末をしなければならない。長い、長い時間をかけて。