HEART OF THE SEA
〜海のこころ
タコの兄ちゃんは、名前をロクといいます。
ロクは、のんびりやです。あるとき、みんなで海の中の大きな岩の上で昼寝していましたが、ロクが目を覚ますとだれもいません。それに、体中がひりひりと痛いのです。よく見ると、海水につかっていた大きな岩は、すっかり潮が引いていて、ロクはあぶなく干しダコになるところでした。
ロクはあわてて海に飛び込みました。ジュワッと音がして、ロクの体から小さな泡が立ちのぼりました。
ロクがフウーと大きなため息をついていると、ハゼが横になりながら泳いできました。
「どうしたね」とロクがたずねました。
「いや、お恥ずかしい。もう、何日も食べてなくて、腹がへってしようがないから、少しでも楽なように、こうやって横になって泳いでおります」
「そうか。それは大変だね。どうだい、おれの足は八本ある。一本分けてやろうか」
「それは、ありがたいお申し出ですが、そうするとあなたは七本足になってしまいます」
「かまわないよ」
ハゼは、ロクから足を一本受け取りました。
「ありがとうございます。これで、子どもたちにも食べさせてやることができます」
しばらく行くと、おなかを上にして泳いでいるベラにあいました。
「どうしたね」とロクはたずねました。
「どうも、こうもないわさ。胃袋が空っぽでさ、おれは普通に泳いでいるつもりでも気がついてみるとこの通りさ」
「それはお気の毒に。おれの足は八本、いや、七本ある。一本分けてやろうか」
「そいつはありがたいが、そうするとおまえさんは六本足のタコになっちまう」
「六本ありゃ充分だよ。さ、持っていきなよ」
「これは、これは。なんて気前のいい兄さんだ。恩は忘れないよ」
次にあったのは、海タナゴの夫婦でした。
奥さんが大きなおなかをしていました。どうやら間もなく生まれるようです。
「おめでとうございます。じき、出産ですね」
ロクは声をかけました。
「そうなんですが、わたしたちの種族は胎生といいまして、親とおんなじ姿で生まれてくるんですよ。だから、生まれてすぐに食べものがいるんですが、この辺の海ときたらちっとも食べものがないじゃありませんか」
そういえばたしかにそうです。透明できれいな海なのですが、海藻も少なくなったようだし、ロクの好物の貝も減ってきたようでした。
「おれの足でよかったら持っていくかい」とロクがいいました。
「そんな、もったいない。それに兄さんの足は六本しかないじゃないですか」
「たしかにそうだが、六本も五本も大してかわりゃしないよ」
海タナゴの夫婦は、なんども礼をいって大事そうにロクの足をかかえていきました。
ロクは五本になった足でぎくしゃくと歩いていました。
「おい、そこのみょうちきりんのタコ」
砂の中から目玉がギロリとロクを見ました。ヒラメです。
「なんか用ですか、ヒラメのおじさん」
「おまえ、三本の足はどうした。自分で食っちまったか」
「いえ、いえ。おなかをすかせた魚たちにあげたのですよ」
「そうかい、だったらおれにも分けてくれないか。見てのとおり、わしは体が大きい。兄ちゃんの足一本じゃ、腹の足しにもならない。せめて二本ほしいが、どうじゃ」
「えぇ、いいですよ」とロクは答えました。
「おれに二本くれるということは、三本足になるってことだぜ。いいのかい」
「しかたないですね。おれにできることはそれくらいだから」
「やさしい兄ちゃん、ありがとうな。困ったことがあったら口笛で知らせな。すぐに駆けつけるからな」
ロクが三本足で歩いていくと、テンジクスズメダイが三匹で泣いていました。
「どうしたね」とロクがたずねました。
「タイにいじめられて、もう、死んでしまおうかと泣いているんです」
なるほど、タイは近くにいて笑っています。
「こら、タイ。魚が同じ魚をいじめてどうする」
ロクはタイに向かっていいました。タイは桜色にかがやくウロコをひらりひらりとくねらしながらいいました。
「同じ魚だって。あははは。まっぴらごめんだわ。あのくすんだ色と同じ魚だと思うだけで鳥肌が立つわ」
テンジクスズメダイが、わっと泣き出しました。
「ほうら、泣いた。また、泣いた。涙といっしょに溶けちまえ」
タイがはやしたてます。
ロクが三本足ですっくと立ち上がりました。
「おれの知っているタイは気品があって、海の中のことは、どんな遠くのことでも知っているものしりだったよ。目の前のタイが同じタイだとはとても思えない」
タイは少し考えるふうでした。
「それに、見ると大分腹ペコのようじゃないか。腹ペコだと、ついいじわるもしてみたくなるもんさ。どうだい。おれの足を一本やるから、そいつをかじりながらタイの品格について考えてみないか」
タイは、ロクから足を一本受け取りました。
それからロクは、テンジクスズメダイに向かっていいました。
「海の中には、おれもいて、タイもいて、君たちもいる。みんながいて海があるのさ。さあ、もう泣かないで。泣かない約束ができたら、ほら、おれからのプレゼントだ」
テンジクスズメダイは、こくりとうなずいてロクから足を受け取りました。
ロクの足はとうとう一本になってしまいました。一本だと、潮の流れに流されてしまいそうです。
ロクがふらふら歩いていきますと、アナゴが砂に体をこすりつけていました。片側をこすりつけては水中で反転して反対側をこすりつけています。
ロクはしばらく見ていましたが、声をかけてみました。
「ずいぶん、熱心だね」
「ああ、タコの兄さんか」
「さっきから見ているけど、なにをやっているのさ」
「なに。砂風呂でさ。最近、体に細かいゴミがくっついていけねえ。それで、頻繁に砂風呂ってわけだ」
「へえー、細かいゴミねぇ」
「おれたちはウロコがない分、敏感に感じるのだろうよ。兄さんは大丈夫かい」
そう言われてみれば、タコにもウロコはありません。ロクは、一本だけ残った足を見てみました。よく見るとたしかに汚れているようにも見えます。
「おれが思うに」とアナゴはいいました。「川の上流にできたダムのせいだと思うね。川は、森の栄養を海まで運んでくれるが、そいつがダムのせいで止まっちまった。栄養分が少ないから、そいつを真っ先に食べるプランクトンが減った。ついで、プランクトンを食べる小魚が減った。だから、この海ではみんなが腹をすかせているってわけさ」
そうか、そういうことだったのか。ロクは、すべてを了解しました。
「でも、でも、それじゃ、どうすればいいんだろ」
「分け合うことだな。少なくなったものを分け合って食べる。そして、辛抱する。兄さんは、見るところ自分の足をほうぼうであげてきなすったな。その気持ちをみんなが持てれば、きっとまた、海はよみがえるさ」
そこへスズキが通りかかりました。やはり、横になって泳いでいます。ときどき上になった方の胸ビレをパタン、パタンと動かしています。
「スズキ、おまえさんも腹ペコ病か」
アナゴがからかうような調子でいいました。
「腹ペコ病なんてもんじゃない。おれは今、死に場所を探してこうやって泳いでいるんだ」
「おい、ずいぶんと物騒なことをいうじゃないか」
「なんとでもいってくれ。おれはただ、静かな場所が欲しいだけだ。おれの最後にふさわしい、澄んでいて、あたたかくて、なつかしい場所がね」
「あのー」とロクが口をはさみました。「いつかは死ぬかもしれませんが、今はまだ生きています。だったら、死の方へ向かうのでなくて、生きる方へ向かうことはできませんか」
スズキはどんよりした眼でロクを見ました。
「ふん。この一本足の兄さんは青臭い、まっとうなことをいうじゃないか」
「この兄さんはなかなかえらいよ。腹をすかせた魚たちに自分の足をあげて、それで一本足になっちまったんだから」
アナゴはロクを見ながらいいました。
「そいつはいいことを聞いた。おい、兄さん、残った最後の一本、おれにくれるか」
ロクはちょっと迷いました。これがなくなったら自分で食べることもできません。歩くこともできません。でも、すぐにロクは、
「ええ、いいですよ」といいました。
「ほんとにいいのか。丸い胴体だけの足なしダコになるんだぞ」
スズキはあきれたというように口をあんぐり開けました。
「アナゴさん、この足をスズキさんまで届けてくれないか」
ロクは、アナゴに足をわたしました。
スズキは足をくわえたまま、目を閉じています。そして、スズキの目から涙が落ちました。それからスズキは、静かにいいました。
「おれがさがしていた場所がここにあった。澄んでいて、あたたかくて、なつかしい場所がここにあった」
タコのロクの話はこれで終わりです。でも、海の中では話は続いていて、ロクはこのあと、潮に流されてさまよいますが、「困ったときには口笛を吹いてくれ」といったヒラメの言葉を思い出し、口笛を吹きます。ヒラメはふわりとロクを背中にのせてくれます。そして、ハゼやベラがエサをとれないロクのために食べ物を持ってきてくれます。そう、それから海タナゴの一家は、子どもたちをたくさん連れてロクに会いに来ました。
あるとき、ロクを背中にのせているヒラメがいいました。
「兄さん、背中をくすぐるのはよしてくださいよ」
「くすぐってなんかいないけど」とロクがいいます。
ロクは自分の足を見て驚きました。小さな、かわいい足が生え始めているではありませんか。
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