草刈りの熊五郎

熊五郎は、草刈りが専門だ。村の年寄りたちは、自分で手入れできなくなった畑や山の草刈りを熊五郎に頼む。すると熊五郎は、背中に大きなノコギリを背負い、薙刀のような鎌をかついでやってくる。まったく熊五郎とはよくいったもので、顔中がもじゃもじゃのヒゲで覆われ、真っ黒な顔に眼だけが光っている。

噂によれば、熊五郎は関東あたりからふらふら流れてきたらしい。タンポポの種がふわふわ飛んで、木の葉っぱに邪魔されたり、クモの巣に引っ掛かったりしながらもやがて広くやわらかな土の上に落ちつくように、熊五郎はここに根をおろした。
熊五郎は山のふもとに小屋をつくった。二間四方ほどの小屋だ。小屋の半分は土間になっている。土間の隅にはかまどがあり、かまどの脇には、火つけ用の杉の葉から順に太くなっていく薪が、きちんと整理されて置いてある。熊五郎の、外見からは想像しがたい几帳面な性格が分かる。
「おおい、熊五郎どんよい」
入口の扉(木の枝を組み合わせて作ったもので、中からは表が、表からは中が見えるものだが)を開けて、茂助じいさんが顔を出した。熊五郎は朝飯を食い終わったところで、茶碗と小皿と箸を持って、裏の小川に洗いに行こうとしていたところだった。
「ああ、茂助じいか。早起きだな。こないだ言われた畑の草、とっくに刈っといたから」
「うん、うん。ありがとうよ。こんな朝早くから来たのには折り入って頼みがあってな」
茂助じいさんは、立ったままで、どことなく緊張している。
「昨夜(ゆんべ)、ばあさんと話し合ったんだが、熊五郎どん、うちに婿養子としてきてはくれまいか。娘のお紺も、今年25になる。なかなか気難しい子でなぁ、村の若者にはだれ一人、見向きもせん」
熊五郎はもっていた茶碗を落とした。茶碗は土間で音もなく二つに割れた。

去年の盆も過ぎたころだ。日照りが続いていた。もうひと月以上も、まともに雨が降らない。そろそろ米は、刈り入れの時期を迎える。刈り入れの前にひと雨がほしい。この最後のひと雨があるかどうかで、米の味が大きく違ってくる。それよりなにより、井戸の水も減っていて残りわずかだ。村では長老を中心に年寄りたちが集まり、『雨乞い』の相談を始めた。話し合いの結果、今度の、満月の、大潮の日に、と決まった。

熊五郎が住む山のふもとから、扇形に緩やかな傾斜の田んぼと畑が広がり、それはずっと先の方で海と交わる。海との境界には背の高い松林が広がり、その向う、海との間は、白い砂浜だ。海には、すぐ近くに大島(うしま)があって、その後ろには中島がある。中島から左の方向にある仏島(ほとけじま)をはさんで池島がある。
池島には、雄池(おいけ)と雌池(めいけ)がある。そして、それぞれの池には雄と雌の龍が棲むと言い伝えられてきた。そして、この池島が『雨乞い』の舞台なのだった。
『雨乞い』には、村で屈強の若者二人が選ばれる。そして、一艘の天馬船が用意される。若者二人が乗りこむと、酒が入った甕が渡される。さらに藁で作った人型の人形が二つ。      
実は去年、熊五郎はその一人としてはじめて選ばれた。

空は、雲ひとつなく晴れている。さすがに朝晩は涼しくなったが、日中の日差しは刺すように痛い。熊五郎たちは満潮を待った。浜では村中の人たちがそろって、これから出発する若者を見送る。最も前列に立つのは、若い娘たちだ。その中にお紺はいた。日に焼けた顔はいっそう引きしまって見えた。ほかの娘たちより、背が高い。お紺はじっと松五郎を見ている。熊五郎は、海水を両手ですくうと髭面を洗った。
長老が両手をあげた。
「さあ、行け。行って、池島の龍を目覚めさせよ」
長老は大太鼓を打った。ドーン、ドーンというはらわたに沁みわたるような大太鼓の音の中、前列の若い娘たちが腰まで水につかって天馬船を押して出してくれた。熊五郎ともう一人の若者、弥平(やへい)は櫓をこいだ。弥平も熊五郎も緊張していた。責任は大きい。もしも雨が降らなかったら、村中が干上がってしまう。
天馬船は緑色の海の上を滑るように進む。海の上はいくぶんすずしい風が吹いている。大島の先端を回って、仏島を目指した。池島は、仏島から回り込めばいい。

「いいか、よく聞いておけ」と、二人を前に長老は言った。
「満潮の前と後には潮止まりの時間が1時間ばかりある。その間に池島まで到着するのだ。甕の酒は、雄池に半分、雌池に半分だ。酒と一緒に藁人形をささげる。終わったら下り潮が動き始めるころだ。その潮にのって全力でこげ。振り向くな。ひたすら、この浜を目指せ。よいな」
二人はうなずいた。

池島に着いた。雄池と雌池といっても大きく湾曲した入り江が二つ隣りあっている。池だと思えば思えなくもない。弥平がしずかに天馬船を進める。雄池にさしかかった。
「甕の酒をたのむ」
弥平が熊五郎に言った。
「あい、わかった」
熊五郎は甕を持ち上げると、船べりから雄池に注いだ。
「龍よ、起きてくれ」
弥平は藁人形を投げた。
雌池に残りの酒を注いだ。弥平が藁人形を投げた。
さあ、役目は終わった。あとは長老から言われたとおり、全力でこいで帰るだけだ。
池島をはなれて、仏島にさしかかったとき、熊五郎は頬に冷たい風を感じた。
熊五郎は空を見た。雲ひとつなかった空に、黒い雲が集まりはじめている。海がざわつき始めた。風が正面から吹きつけてきた。弥平の顔つきが変わった。熊五郎の背中を冷たい汗が流れていった。弥平は奥歯をかみしめて、必死の形相で櫓をこいでいる。熊五郎は弥平の隣に座った。そして、弥平がこぐ櫓の動きに合わせて、一緒にこいだ。
仏島を過ぎたところでぽつりと雨粒が落ちてきた。すると見る間に雨粒は間隔を狭め、熊五郎がまばたきをするあいだには、一面が乳白色になった。波が行く手に立ちはだかった。方向が分からなくなった。
「大島を目指すぞ」
弥平が大声で叫んだ。しかし、波に翻弄され、風にあおられて大島の方角が分からない。甕が転がって海に落ちた。

二人が、出発した浜にたどり着いた時には、すでに夕方近くになっていた。雨は霧雨となっていて、山には白い霧がかかっている。村の人たちは、松林の陰で待っていた。二人の姿が見えると一斉に走ってきた。先頭を走っているのは、お紺だった。

熊五郎はその時の光景を思い出した。そして、熊五郎は、すべてを了解した。

こうして熊五郎は、茂助じいの家の婿になった。やがて、お紺との間に男の子ができた。熊五郎はその子に「竜馬」と名前をつけた。次に生れた女の子には、「タツ」と名付けた。

これが草刈りの熊五郎のお話です。