虫の季節
古い原稿が出てきたので、パソコンで入力し直していたら画面に虫。
山の家の周辺も一日ごとに変わっていきます。
あと二週間もすれば、ここではホタルが見れます。
ところで、古い原稿はこんな書き出しで始まります。
「サルノコシカケ」
太一が初めてそのことを聞いたのは、小学校六年生の家庭科の時間だった。キャベツを刻んでいた正雄が、調理台の向かい側でリンゴの皮を向いていた勝利に話したのだ。太一は正雄の隣でハクサイを切っていた。それにしても、どうしてハクサイだったのだろう。古谷先生は、確かにキャベツと言ったのに。
「明日、野菜サラダを作ります。材料に、キュウリ、キャベツ、リンゴ、それにマカロニを使うので、みんな自分の家にいま何があるか考えて、自分が持ってこれる材料に手を挙げてください。マカロニは先生が準備します」
古谷先生が「キャベツ」と言った時に太一は手を挙げた。そして家に帰ってから夕食の準備をしていた母親に、
「明日、学校でキャベツを使うから」と確かに言った。
ところが学校で新聞紙の包みを開いてみたらハクサイが出てきた。
「太一、スキ焼作るんじゃないんだぞ」
正雄がからかった。
古谷先生は太一のハクサイを見て
「自分の行動には責任を持ちましょう。太一君は今日、ハクサイサラダを食べること」と言ったのだ。
太一は自分だけのハクサイサラダのためにハクサイを刻んだ。
「鶏のエサみたい」
太一の後ろで幸子の声がした。
「マヨネーズの代わりに米ぬかで会えるといいのにね」
理恵の声だ。太一は怒りと恥ずかしさで耳まで真っ赤になった。
正雄の声が聞こえてきたのはそんな時だった。
「サルノコシカケって知ってるか」
「知ってるさ。裏山で見たことがあるよ」
勝利が答えている。
「そんなんじゃない。こんなに大きくて」と正雄が両手を広げた。包丁が太一の目の前にきた。
「危ないよ」
太一が小さな声で抗議した。正雄はふんと笑って二つに割ったハクサイの上に包丁を振り下ろした。水滴が飛んで、太一の顔にかかった。
「それで?」
勝利が聞いた。
「虹のように光っている。なにしろ虹が出るときは、決まって虹の片方はベンケイ岩に
かかっている」
「ベンケイ岩か」
勝利がリンゴの皮をむく手を休めて窓の外を見た。
ベンケイ岩は、万寿岳の頂上にあって、体中に矢を受けて、なお仁王立ちしている弁慶の姿に似ていた。
「去年、一番上の兄ちゃんが取りに行ったけど、だめだった」
「あの、運動神経抜群のシゲさんができなかった」
「そうさ、兄ちゃんはトラックにテントを積んで、万寿岳の真ん中くらいまで行ったんだ。そこから歩いて、万寿岳の頂上でテントを張った。朝になったら一番にベンケイ岩に上るつもりで、ロープやハーケンまで用意していったよ」
太一は正雄の話を聞きながらザクザクとハクサイを切った。切っているうちに本当に鶏のエサに見えてきた。
「このことは誰にも言うなよ」
正雄が声をひそめた。「蛇が出たんだ。一匹や二匹じゃない。兄ちゃんは朝、なんとなく生臭い匂いで目を覚ましたらテント中が蛇だらけだった。とくに兄ちゃんの頭のすぐ近くで、シマヘビやアオダイショウやカラスヘビが大きなスイカをもっと大きくしたような塊りになって動いていた」
勝利が身震いした。
「な、気持ち悪いだろう。兄ちゃんは何にも持たずに逃げ帰ってきた。トラックまで忘れてきたんだ」
太一は目の前のボールに山のようになったハクサイを見た。とても食べきれる量ではない。太一はボールを持って古谷先生を探した。
古谷先生は、マカロニを茹でていた。太一が前に立つと、ちょっと待ってというように太一に手のひらを向けた。薬指には銀色の指輪が食い込むようにはまっている。そう、古谷先生は、去年の秋に結婚したのだった。
「はい、ちょうど七分。ザルにあけて」
古谷先生がやっと顔を上げた。
虫たちとともに続きを書きます。