未新子(ミジンコ)

 未新子=ミジンコは、今年一年生になったばかりの、おれ、キョンキョンの妹の名前だ。名前をつけたのはもちろん、じいちゃんだ。生まれた時、ひときわ小さかったらしい。それで、未新子。相当飛躍していると思うけど。
おれとおなじで、だれも未新子(ミジンコ)とは呼ばない。みんな、シン子で通っている。


夏休みに入って、お盆も過ぎたころにシン子とおれは、九州へ向けて羽田空港を発った。お盆のあいだは混むし、料金も高い。うちの母ちゃんは計算に強い。しっかり計算して、8月20日発の便をとった。空港まで送ってくれた父ちゃんは、じいちゃんに来年の夏には帰りますと伝えてくれ、といった。能天気な父ちゃんだ。来年もあると無邪気に信じている。


じいちゃんが空港まで迎えに来てくれた。夏休みの宿題も全部終わったし、八月の最後の日に埼玉へ帰ればいい。夏休みの残りは、しっかり、じいちゃんとばぁちゃんと過ごすつもりだ。
おれたちのせいで、じいちゃんの家は、俄然にぎやかになった。第一、食卓の献立が一変した。着いた日の夕食には、一年振りのコロッケが登場した。これは、おれがリクエストした。それとアサリの味噌汁。シン子の目の色があきらかに変わった。シン子は小さな体でコロッケを4つ食べ、アサリの味噌汁をお代わりした。


それにしても九州は暑い。ほとんど熱帯だと思う。じいちゃんの家にはクーラーなんてしゃれたものはなくて、ゼロ戦のプロペラみたいな扇風機が二つあるだけだ。じいちゃんとばぁちゃんが一つずつ使っている。おれとシン子の分は、ない。
暑い、熱いと言っていたら、それじゃ、泳ぎに行こうということになった。
「海だ、海だ」とシン子は喜んで、部屋の中を走り回っている。
朝から、ばぁちゃんが梅干し入りのおむすびをつくった。じいちゃんは物置をかき回して、水中メガネとシュノーケルを探しだした。さあ、出発というところで、大事なことを思い出した。水着がない。
「大丈夫。だれもいないところへ行くから、フルチンで泳げ」
じいちゃんの言葉で決定。おれとシン子は素っ裸で海に入ることになった。


だれもいない砂浜。たしかにだれもいない。両端についたてのような岩があって、その岩に守られるようにして、小さな砂浜がある。海のはるかかなたに島影が見え、そこから白い雲がわきあがっている。空は、高くて深い。青のなかの青だ。
「ここは、じいちゃんとばぁちゃんの秘密の場所だ」
「そうよ。秘密の場所」
武闘派のばぁちゃんまであいづちを打つ。
秘密の場所、ね。二人の秘密にまで立ち入ろうとは思わないね。
シン子は泳げない。おれは、なんとか泳げる、クロールだけだけど。じいちゃんはTシャツと半ズボンのまま、ジャブ、ジャブと海へ入った。車を運転していた時のままだ。おれが続いて、シン子が続いた。ばぁちゃんは波打ち際で足踏みして、胸の前で手を振っている。どこかで見た光景だ。そうか、天皇の妃の美智子さまとか、皇太子妃の雅子さまとかが不思議な笑みとともに手を振るあの光景だ。
ばぁちゃんは泳げないな、おれは直感的に思った。
じいちゃんは腰の深さで止まった。おれは胸まで、シン子は・・・、振り返ると手をばたつかせてアップ、アップしている。じいちゃんがシン子を抱え上げた。
「どうだ、おぼれた感想は」
「ケフ、ケフ、ペッ、ペッ。アー、しょっぱかった」
「もう大丈夫だ。これ以上、おぼれることはない」
シン子がじいちゃんの顔を見てにっこり笑った。
「シン子はバタ足からだな」
じいちゃんはシン子の手をとった。おれはそのわきで砂浜と平行に泳いだ。平行に?しかし、顔をあげてみると、いつの間にか砂浜から離れている。あるところで海水が急に冷たくなる。おれは全身が寒くなり、あわてて砂浜を目指す。
「海で、クロールはよくないな」
おれの泳ぎを見ていたじいちゃんが言う。「クロールは前が見えない。海では、今自分がどこにいるのかを常に意識しておく必要がある。平泳ぎか横泳ぎを練習してみな」
「横泳ぎ?」
「こういうもんだ」
じいちゃんはシン子を背が立つところまで連れて行ってから、スイッと泳いだ。身体を横にして、下になった方の手を伸ばす。反対の手で水をかいて、足で水をける。次いで、伸ばした手で水をかく。水と一体になっている。じいちゃんの先祖はイルカだったのじゃないか。じいちゃんはクルンと回って戻ってきた。
おれもやってみた。二かき目には沈んでしまうじゃないか。
「力を抜くんだ。海に体をあずけろ」
海に体をあずけろ、っていわれても難しい。手と足がじいちゃんのようにスムーズに動かない。おれは「メシだぞ」といわれるまで練習した。少し、感じがつかめてきた。
砂浜で食べるおむすびはうまかった。シン子はおれより早くから食べ始めて、おれより後まで食べていた。
「何個目?」というと、ニッと笑って、指を4本立てた。