台風の朝2

先に帰ってきたのは、タナカ先生だった。
「街はひどいことになってるよ」
折れた街路樹が道路に散乱していて、それが風にあおられて道路をすべっていく。
「やっぱり」とイクオがすぐに反応した。「気圧がぐんぐん下がっています。970まで下がりました」
おれんちは大丈夫かな、と思う。なんせ、築80年の、もとは古い旅館だから。猫のオコンは、不安で家中をオロオロしているだろう。
タナカ先生は、買ってきた食糧を机の上に広げた。カップラーメンが5個、あんパンが5個、コロッケパンがやはり5個、それにペットボトルのお茶となぜかカルピス。
「おにぎりなんて何にもないのよ。このコロッケパンだって、最後の5個を確保したんだから」
さすが、タナカ先生だ。トリサキ先生が行っていたら、こうはいかないだろう。第一、コンビニまでたどり着けたかどうか。
やっとトリサキ先生が帰ってきた。
「さあ、すべてよし、だ。観察会をやるぞ」
職員室での電話のやり取りで何があったのか、トリサキ先生は一言も言わないし、顔にも出さない。このあたりはさすがだと思う。ぶっきらぼうだが、トリサキ先生の持つ信念のようなものを感じる。
「もう始めています」
モモコは、机の上の日本地図から目を離さずに言った。
「暴風雨の半径はどれくいだ」
「半径200キロです」
モモコは地図の上に次々にコンパスで赤い円を描いていく。半径200キロの円だ。
「気圧は?」
「今、965まで下がりました」
イクオは時間と気圧をノートにメモしながら言った。
「台風の速度が速くなっていないか」
「さっきの段階で時速35キロです」
「そうか。これからもっとスピードを上げるかもしれん」
「どれくらいまでですか」とイクオ。
「そうだな、偏西風に乗れば最終的には時速60キロくらいになるかもな」
「昔、学生のころに、台風の速度と風速とは関係があると聞いたんですけど」
タナカ先生が不安げな顔で話に加わった。
「そうです。とくに台風の東側では顕著です。最大風速45メートルが、50にも60にもなります。そして瞬間的にはその1,5倍の風が吹く」
「50メートルの1,5倍ですか。75メートルですよ」
「それくらい吹いてもおかしくはない」
「そんな風、わたしは経験ありません」
「ぼくもない。だから今日の観察会でしょ。ところで、旧歴では今日は何日かな」
さすがのイクオも首を振っている。トリサキ先生は机の引き出しをかき回して、潮見表を取り出した。
「今日は9月21日だろう。旧歴では8月3日だ。大潮の最後の日だな。満潮時間は、11時30分。これはやばいな」
「どう、やばいんですか」とおれ。
「高潮だ。普段、高気圧で押さえつけられているのは、海も一緒だ。それが気圧の低下で膨れ上がる。海水は防波堤を超えて、低い土地へ流れ込む。これが高潮だ」
「だんだん怖くなってきた」モモコが顔を上げる。
「トリザキ先生、大丈夫ですか」
「さあ、ぼくに聞かれても。それから、やっぱりトリサキですけど」
「どうしてそんなに名前にこだわるんですか。トリサキもトリザキも、どちらもあなたのことだから、ハイといっていればいいでしょ」
「そうだ、名前で思い出した。台風にはみんな名前があるんだ。日本では台風何号としか言ってないけどな。今度の台風15号は、‘マーロウ’という名前だ。ジャワ語で、‘赤い木の実’という意味だそうだ」
「赤い木の実、おいしそう」
「日本では、赤い木の実と言ったら誰もがリンゴかサクランボを連想する。忘れちゃいけない。これはジャワ語だ」
「おいしくないの?」
「どころか、毒かもしれない」
イクオがラジオのヴォリュームを上げた。
「猛烈な台風15号は、沖縄本島を通過後、東シナ海を回りこむようにして、九州中部から北部に上陸するものと思われます。上陸推定時刻は、午後1時ごろと思われます」
「速くなってる」イクオが叫ぶように言った。
おれはさっきのニュースが気になっていた。沖縄は通過なのに、九州は上陸という言い方をする。通過と上陸の違いはなんだ。おれは、トリサキ先生に言った。
「通過と上陸の違いは何ですか」
「同じだろ。ただ、気象庁の見解では、島嶼部は‘通過’ということになっている」
「同じだったら、沖縄に上陸後、九州に再上陸といってもいいと思いますけど」
トリサキ先生は、大きくうなずいた。
「おれも、実はそう、思っている」
意外だった。トリサキ先生は、遠くを見るようにして言った。
「不吉で、禍々(まがまが)しいものが南の海からやってくる。沖縄の場合、米軍の上陸と重なるんじゃないかとも思う。だから、上陸という言葉を上手に避けて、通過じゃないかな」
「わたしもおかしいなと思っていたんです。いったい、通過と上陸の線引きはどこにあるんだろうと」
おい、おい、暴風雨が牙をむいてうなっているときに議論してる場合かね。
「おれは」とイクオが口を出した。イクオはごちゃごちゃした議論が好きなのだ。
「襲来、はどうかと思っています。‘蒙古襲来’の襲来です。こうなります。19日の朝、沖縄を襲来した台風15号は、今日の午後、九州中部から北部を襲来するものと思われます。」
「ふむ。いいじゃないか。40年後が楽しみだ」
「なんですか、40年後って」
タナカ先生は、髪をかきむしりそうになった。
「イクオが日本気象協会に入って、誰もが無視できない発言をするまでの時間です」
「あなたって、どうして、瞬間的にそう飛躍するんですか」
「飛躍は一瞬です。いや、一瞬だから飛躍かな」
「先生」気圧計を見ていたイクオが叫んだ。「気圧が960をきりました」
「いよいよだな」