寒い朝

 良く晴れた日の朝は冷える。
 冷えると露が降りる。

 車に置きっぱなしのカメラのレンズにも露が付いていて、朝日を浴びるチビスケもこの通り。

 
 11月1日からの『大陶磁器展』がせまっていて、そこのエントランスホールで竹細工を展示販売する約束をしたぼくも、どことなくせわしない。

 そんななか、電子書籍の表紙ができました、と連絡があった。
 Amazonの規約が改正されて、出版された本とは別のタイトルをつけなけばならないのだという。
 そのタイトル、『あのね』と決めた。
 
 なかにこんな話も入っている。多分。



     チンチンさん


こう暑い日が続いちゃかなわん。
子どもたち、こっちへ寄れ。この銀杏の木の下だ。
どうだ、日蔭は涼しいだろう。
夏休みの宿題は終わったか。ナシトゲ神社の梨は食ったか。
そうか、そうか。
それじゃ、今日は、そのナシトゲ神社の話をしよう。

むかし、むかしのことだ。
ナシトゲ神社のある丘の上で、チンチンさんは、一生懸命に石を彫っていた。
金槌がノミの頭をたたくたびに、カチン、カチンをいう音が響いた。チンチンさんという名前は、そこからついたのだろう。いや、もう一つには、あまりにも夢中に彫るものだから、広げた足の間で褌がゆるみ、そこからフグリがのぞいていたから、という説もある。いずれにせよ、チンチンさんという呼び方は子どもたちの間から広まり、やがて、村中に定着した。

そのころは戦乱の時代で、この天草でも大きな戦が二度あった。
一五八九年の「天正の天草合戦」、一六三七年の「天草・島原の乱」がそれだ。
大勢の人が死んだ。子供もたくさん死んだ。
チンチンさんは、そんな時代の人だ。

チンチンさんは岩の前に茅葺の小屋を作った。小屋にはノミを鍛えるためのフイゴも置いた。なにしろ三日もすればノミの先端は丸くなる。それを真っ赤に熱して、鍛え直さねばならぬ。なにしろ、チンチンさんが彫っている岩は、高さが一間(1,8メートル)、幅が二間半(4,5メートル)もある大きさだった。
さて、チンチンさんは何を彫っていたか。たくさんの子どもたちと女たちと、それから男たちを岩に刻んでいた。

やがて、「チンチンさん」と言って遊びに来ていた子どもたちは成長し、村に新しい家族が増えた。
チンチンさんは大きくなった彼らに会うたびに、
「われらの夢は道半ば、いつか、成し遂げようぞ。
海の潮が入り江を満たすように、われらの思いでこの世を満たそうぞ」というのだった。

さて、毎日毎日岩を彫り続けて長い年月がたった。
ある日、チンチンさんは岩の前で死んでいた。手には、ノミを持ったままだった。
知らせを聞いて集まった村人は、チンチンさんが彫った岩を見て驚いた。そこには数えきれないほどの顔があった。しかも、どれ一つとして同じ顔はなく、また、悲しんでいる顔も、怒った顔もない。
 人には一番いい顔というのがある。どの顔もどの顔も、その一番いい顔をしている。

 村人たちは岩の周りに柱を立て、梁を乗せて屋根をつくった。これがナシトゲ神社の始まりだ。そう、それから梨の木を一本植えた。お前たちが今年食った梨も、その時の梨から続いたものだ。石のように硬かっただろう。

 この村の若者は、村を出る時、ナシトゲ神社にお参りする。
 「必ず、成し遂げます」といってな。