責任をとるということ


今、社会はますます生きにくくなっています。非情で、残酷な社会は、特に若者たちに対して牙をむいているように思えます。
生きにくい世の中が加速しています。

本来なら2011年3月の東北の大地震と大津波は、たくさんの犠牲の上にですが、わたしたち人間に生と死を考えさせる機会でした。

わたしたち列島に住む日本人は、過去繰り返し大地震や大津波に襲われ、その度に、生と死の持つ意味を考えてきたのです。もちろん戦乱もあったし、疫病の蔓延もあったでしょう。死は、常に身近な所にありました。だからこそ、生きていることが輝いていたのでした。

しかし、2011年が過去の大地震や大津波と違っていたことがあります。原発爆発とそこから発生する放射能と、福島沖から太平洋へと日々漏れ続ける放射能汚染水の問題です。
つまり、2011年の災害は3月11日で終わったのでなく、そこが始まりだったのです。このことをわたしたちはしっかり認識すべきだと思います。しかも、終わりが見えない始まりなのです。
この国の政府と東京電力は、今なお、原発事故をできるだけ小さなこととして扱おうとしています。現在進行している現実から目をそむけ、わたしたちに「安心・安全」の幻想の世界を押しつけようとしています。

「見たくないものは見なくていいのよ。影響が出るのはずっと先だから、その頃にはわたしもいないし、あなたもいない」