下田の怪ばあさん

 下田温泉で、湯あがり、ボーとしていたらおれのすぐあとから出てきたばあさんが話しかけてきた。
「どこからきなさった」
「本渡からです」というと、「え?どこだって」と聞き返す。ゆっくり「本渡から」といったら「ああ、そうかい」と分かってくれた。どうやら耳が遠いらしい。
「どうだい。いい湯だっただろう。ここは天然だからな」
 まだ若い娘さんがでてきた。三十代だろう。すると、ばあさんの孫に当たるのか。お湯で上気した顔はにこやかだ。
「ばあさんは歳はいくつ?」と聞いてみた。
「え?」
「トシ、だよ。八十歳くらいかな」
「え?なんだって」
おれは娘さんの方を向いた。
「いくつに見えますか。九十歳です」
 今度はおれの方が驚いた。八十には見えても九十には見えない。顔の色とハリだけを見れば、七十代だ。口もとには少ししわがあるものの、頬はつややかだし、目にも力がある。
 ばあさんが、話し始めた。

「わしはな、この下田で育った。子どもの時分は、ここの温泉で泳いだものだ。ここには大きな岩があって、お湯はその岩の下から湧いてきた。熱いお湯が流れ出て、湯だまりができる。子どもたちはその湯だまりで泳ぐ。二階は畳敷きの大広間になっていて、木の枕が置いてあった。温泉客はここで休む。それから、また、温泉に入る。
 その頃は長崎からの客が多かった。長崎で原爆に会った人たちが、たくさん湯治にきていた。
 わしは大きくなって、大阪で働いた。大坂で、船の電気工事の仕事をしていた。船といっても小さい船じゃない。三井商船とか日本郵船とかの大きな船だ。それから捕鯨船の仕事もした。船は潮風のせいで傷み具合が早い。電気も金具のところがすぐにダメになる。わしらの仕事は途切れることはない。
 アパートも持っとった。アパートは十五部屋あったから、そこから入る家賃だけでもずいぶん贅沢できた。
 それから八十からある市場の真ん中に店があった。
こんな具合だったから、大阪で家は三つ作った。
けどな、みんなアホな亭主といっしょに捨ててきた。離婚して、みんな置いてきた」

なんともすさまじいばあさんだ。これが風呂上がりの十分間の出来事だった。この十分のあいだに、ばあさんの生きた九十年を見たようにも思った。

写真は、下田の新緑と夕方の十日月。