内なる時 


母は85歳だ。父が死んだ後、一人で暮らしている。昨日、首が痛いと言い出した。しばらく前から膝が痛いといって、整形外科へ通っている。今朝、病院へ行くため迎えに行っての車の中でのこと。助手席で独り言のように話し始める。
「昔はなんであんなに早くに大根の種をまいたのかねえ。静子が生まれるころにはもうまいていたもんなあ」
 静子は、ぼくの妹で8月下旬の生まれだ。旧歴のお盆が終わり、秋のかすかな匂いがするころだ。
「大根の葉っぱを食いたかったんだろ」
 ぼくは素っ気ない。
「そう。大根の葉っぱもよう食った。間引いて、まだ、箸の先のような小さい大根がついてるやつを塩もみして毎日そればっかり食っとったな」
 「それから」と、11月の透明な空気にさらに饒舌になる。「白菜をかついで「天(てん)松(しょう)」まで売りに行って、そう、そんときは立派に育ったネギもその上にのせて持っていったが、1000円にもならんかった」
 彼女は今、自身の人生の、もっとも充実した「時」を語っている。
「和子を産むときは、その日まで唐イモ掘って、庭に運んで、産婆さんを呼んだ」
 
 彼女の誕生から始まった彼女の「時」は、まもなく終わるだろう。
 ぼくの誕生から始まるぼくの「時」は、彼女の「時」の途中から始まる。これをぼくは「内なる時」と呼ぼう。人はだれでも「内なる時」を生きる。
 「内なる時」のいくらかは、次の世代へ引き継がれる。
 そう思いながら、母の話を聞いた。