虫追い祭り〜忘れられた記憶

7月17日は、天草市河浦町で『虫追い祭り』があった。天草に来て20年になるが、はじめて見に行った。
一度は見てみたいと思っていた。たまたま今年、インターネットテレビの天草テレビが『虫追い祭り』の番組を作った。そのナレーションを依頼されたのが、うちのカミさんだった。
会場は河浦町の一町田小学校の校庭。午後3時からということだったので2時半過ぎに会場に着いた。
会場ではすでに「競技」が始まっている。長さ15メートルの竹竿に虹色の旗がつけられている。これを立てて5分間持ちこたえられるか、を競っている。旗竿が長いので、校庭の中央で2組ずつが競う。台風6号の影響が出始めて東の風が時折強くなる。旗竿の持ち手は右に左に動きながらバランスをとる。成功率3割くらいか。
ここで本部席からアナウンス。
「虫追い祭りは、1630年ころ始まったと伝えられています。
その時、田畑を食い荒らす害虫が大発生しました。住民が途方にくれているとき、ある信心深い老婆が、赤い絹布を奉納し、害虫退治を祈願しました。そして、その絹布を振りながら田畑を歩くと、見る間に害虫はいなくなったそうです。
今日は審査員として区長会代表と地元市議会議員、さらには副市長もお見えです。」


帰ろうか。
そうね、つまんないね。
虹色の旗が田畑を練り歩く光景を見たかったけど、残念。
タコが力を持ってるのよ。そのタコがどんどん天草をだめにしている。


想像力の欠如とはこんなことを言うのだろう。
ただ、天草テレビが番組を作ったのは、一人の研究者がきっかけだった。奈良文化財研究所の深澤芳樹氏だ。
深澤氏は、たまたま見たニュース番組で河浦町の『虫追い祭り』を知った。彼の直感は、映像を見た瞬間に邪馬台国へ飛んだ。さらに中国にも飛ぶ。
「これは虫追いではない」
では、なにか。
虹色の旗の行列は、そもそも異界の者への葬送の儀礼なのだ。
実は、河浦城の領主だった天草久種が病気で死んだのが1582年7月だった。1630年は50年忌にあたる。天草氏は洗礼名をドン・ミゲルといった。キリシタン一揆である島原・天草の乱は、わずか7年後の1637年だ。当時はおそらく厳しい禁教令のさなかだっただろう。そもそも「老婆が赤い絹布を奉納した」というのがおかしい。当時、絹は高価なもので誰でもが持ちえるものではない。絹を奉納した老婆は、天草氏の係累の可能性が高い。
「虫追い」に名を借りたドン・ミゲルの50年忌とみたほうが、どうだろう、はるかに歴史を継承することになると思うのだが。
残念ながら、人の記憶というのはいい加減なもので、400年を待たずにこのありさまだ。