ドシ(友達)ということ

 

 天草で、ぼくの父親世代は、友達のことをドシという。ちなみに父は、大正11年の生まれだ。今生きていたら、97歳ということになるが、12年前に亡くなった。
 父親の口から幾度となく「ドシ」という言葉を聞いた。聞くうちに、ドシの語源は「同志」ではないかと思うようになった。中学生のころだったように思う。なにしろ、「トゼン」の言葉が残っている土地だから、「同志」が残っていても不思議ではない。ちなみにトゼンは、徒然と書く。天草で「トゼンなか」というと、寂しいを意味する。
それにしても同志とは穏やかではない。たとえばそれは、江戸末期の「尊王攘夷」を掲げた志士を連想してしまう。
 でも、待てよ、と思う。同志が志しを同じくする者だとしたら、それは単に友達以上のものではないのか。

 ぼくの想像は、ここから山本太郎が4月に旗揚げした「れいわ新選組」へと跳ぶ。
 家には山本太郎のポスターがあちこち貼ってある。そのポスターには、「山本太郎となかまたち」とある。なかまたちねぇ。小さな違和感があった。
仲間はグループをつくる。友達にしても同じだ。そして、グループは対立を生む。仲間とそうでないものたち、友達と反友達。
  同志はどうだ?重要なのは志しであって、それは、仲間や友達の枠を超えるものではないのか。

「れいわ新選組」には、「れいわ新選組と同志たち」がふさわしいでのはないか、と思ってしまう。