母親のこと

 

 母は昭和2年、鹿児島県枕崎の生まれだ。名前は、スミという。名前のとおり、末っ子だ。戸籍上の誕生日は3月28日だが、10歳上の姉が言うには、お前が生まれた日には雪が降っていた、のだと。当時はそんなものだったのかもしれない。生まれてからひと月、ふた月経って、もう、大丈夫そうだというので役場に届ける。

 現在92歳の母は、洗濯をし、カボチャとジャガイモの煮物を作り、なんとか一人で暮らしている。

 夏まではそれほどの変わりはなかった。しかし、秋が始まるころから急速に老化が進んだ。なにしろ腰が90度以上曲がっていて前を向いて歩けない。前が見えないからぶつかる。車に乗ろうとしてドアにぶつかる。スーパーでカートを押していて陳列棚にぶつかる。
 先日行ったかかりつけの医者からは心臓の弁の一つが硬くなっていると言われた。さもありなんと思う。なにしろ90年以上動き続けてきた心臓だ。医者は続けて言った。このことでどういう症状が出るかというと、突然、目の前が真っ暗になって倒れる、つまり、意識喪失です。それを聞いたのが10月の初めだった。以来、これまで息子クンとぼくとで水曜日と日曜日、週に2回行っていたのをできるだけ一日おきに行くようにした。

 

 ところで、枕崎の母がなぜ天草まで来て、役場に勤めていた父と結婚することになったのか。
 これは、15歳以上歳が離れた母の長兄にまでたどらねばならない。この長兄は、料理人だった。それも満州で。店には兵隊たちが来ていた。その中に天草出身の兵隊がいて、長兄はこの兵隊と親しくなった。そして、自分の妹をこの天草の兵隊に紹介することになる。その妹が、ぼくにとっては叔母になる、母の10歳年上のテルさんだった。まだ太平洋戦争が始まる前のことだ。
 叔母は、三人の子の母となった。三人とも女の子だった。
この叔母の夫は、天草で青年たちに軍事訓練などをしていたと聞いた。しかし、戦局が悪化し、叔母の夫も徴兵されることになった。送られた先は、沖縄だった。そして、戦死。詳しいことは何もわからない。ただ、戦争へといった夫は、二度と帰ってくることはなかった。家には歳をとった両親と聾啞のおじさん、三人の娘が残された。


 戦後、叔母のもとを二度、三度と母は訪ねている。叔母の近所に父の同級生がいた。三角駅の駅長を務めたシズオさんだ。おそらく、このシズオさんが父と母との橋渡しをしたのだろう。


 昭和25年、母は父と結婚した。この年は祖父の孫市さんが亡くなった年でもあった。

 そして、翌年、ぼくが生まれた。