島原幻想

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霧に浮かぶ島原と雲仙普賢岳

その普賢岳は今から30年前に爆発した。山頂付近に溶岩があふれ、盛り上がり、ある時溶岩の塊が山腹を流れ下った。火砕流と言われるものだ。消防団の人や市民、それに火山研究者の方も亡くなった。

ぼくたちが天草に引っ越したのは、その翌年だったか。風向きによっては車の屋根に火山灰が積もったりしていた。

普賢岳はおよそ200年前にも噴火している。この時は、眉山が崩壊して対岸の天草や熊本方面にまで津波が押し寄せた。

ぼくが生まれ育ったのは、天草の松島町というところだが、ここには「仏島(ほとけじま)」と呼ばれる島がある。噴火や津波で亡くなった人たちをこの島に集めて海岸に埋めた。以来、島の名前は「仏島」なのだと、これは父から聞いた。

それからさらに200年前、1637年『島原・天草の乱』が起こった。

島原、天草で30000人を超える人たちが殺された。人口が減ったこの地方に移住政策がとられ、主には四国から移住者が来た。島原はそうめんが有名だが、おそらく四国からの移住者が伝えたのだろう。

ぼくの祖父は、船大工だった。これも、その時の移住者の末裔かもしれない。

その乱から約50年前、1589年、天草では合戦が繰り広げられた。「天正の天草合戦」という。秀吉の命を受けた加藤清正小西行長の軍が本戸城を攻めた。

この時の様子を宣教師ルイス・フロイスの『日本史』はこう伝える。


「その日行なわれた攻撃はあまりに頻繁であり、城中の人々は、労苦、および連日に渡る徹夜のために疲労困憊し、ついに敵は城壁の一辺を壊すにいたった・・・。
 戦局がこのような状態にあって、すでに極度の危険に瀕していた時に、籠城していた婦人たちは驚嘆すべき行動を示した。それは日本において長年にわたり、崇高な行為、また偉大な賛辞に価するものとして語り伝えられることだろう。
それは次のようであった・・・。
城主ドン・アンドレとドン・ジョルジの妻女、およびその娘や息子の嫁たち、またその他の貴婦人たちは、すでに自分たちの夫や親族のあるものは傷つき疲労し、また他のものは戦死を遂げてしまい、もはや人間的に救われる道はなく、しかも武器を手にして対処するしかないことを知ると、三百人ばかりの婦人たちは集合し、自分たちが直面している切迫した危険を明白に認め、女性としての本来の弱体と臆病さを忘れ、勇敢な女侍のように全員が一丸となって戦局を盛り返し、自ら力の限りを尽くして敵に抵抗しようと決意した・・・。」

 

フロイスは続ける。
「彼女たちはその目的で武装し、すでに疲労し負傷している息子や夫たちの前方に進み出て、死ぬまで戦い、あるいは敵から勝利を勝ち取ろうと健気にも覚悟した。かくして彼女たちはほとんど全員がすでに告白をすませ、娘であると既婚者であると寡婦であるとを問わず、より自由に、妨げられず戦えるようにと全員が髪を断ち切り、その長衣が邪魔にならぬようにと、慎み深く裾を必要なだけからげた。あるものは鎧をまとい、他のものは太刀を帯び、またあるものは槍とか、その場で入手できた種々の武器でおのおの身を固めた。大勢のものが冑をかぶり、コンタツのロザリオや聖遺物を頸にかけた。彼女たちの多くは、泣きじゃくり涙にくれる乳飲み子や子供たちを家に残していたが、母性愛をも忘れ、全員は挙ってイエズスの御名を唱えながら、勇猛心を奮い起こし、最大の激戦が展開している戦場を目指してまっしぐらに突入した・・・。」

 

なんだろうね、人間って。

普賢岳を見ながら考えてしまいます。