ぼくの吃音

 

ぼくは吃音だった。
普通にしゃべっているときはまだいいが、あらたまった場ではもろに出た。最初の音が出てこないのだ。
そんなぼくが、中学の3年間を通して「級長」だったのだ。
一番困ったのは、学校あげての防災訓練のときだ。
サイレンが鳴る。生徒は校庭に集合する。校長以下各教師が並ぶ。そこで報告するのだ。
「〇年〇組、女子26名、男子24名、異常ありません」
これだけのことを言うのにどれだけ苦労したか。言うのに苦労したというより、そもそも言えないのだ。
「・・・・・・2年・・・・・・1組・・・じょ、女子・・・」
教師たちは笑いを必死にこらえている。
ぼくにとっては、拷問だった。
思うにこうだ。1対1ならいいのだ。1対2でもまだ、いい。1対3あたりから怪しくなる。相手の思いがごちゃごちゃと響いてきて、収拾がつかなくなる。ところが、200人、300人となると意外と大丈夫なのだ。これは弁論大会でしゃべった経験から確信する。


むかし、アマゾンの奥地で生きる原住民のドキュメントを見たことがあった。彼らの数字は、両手で数えられるだけだった。それ以上になると「たくさん」。
なんか、ぼくの場合と共通するものがあるのではないか。

そこで出来たのが大鼻族の話だ。

 

じいちゃんと大鼻族

 

じいちゃんがナイフと彫刻刀で変な顔を彫っていた。顔の面積の半分が鼻なのだ。
じいちゃんは彫りながら、ぶつぶつ言っている。しばらくのぞいていたが、おれは指をなめて、そいつを眉にこすりつけてから、思い切って聞いてみた。
「だれの顔?じいちゃんの知ってる人の顔?」
「さあ、知っているような、知らないような」
めずらしく歯切れが悪い。こういうとき、じいちゃんは考えているのだ。
「昔、昔の話だな」
そら、きた。
「昔というと100年くらい?」
「もっと昔だ」
「じゃ、500年くらい?」
「もっともっと、昔だ」
「それじゃ、思い切って3000年」
なんか、オークションで物を買っている気分になってきた。
「1万2千年前の話になる」
おれはじいちゃんの横に座り込んでしまった。
ムー大陸って聞いたことがないか。太平洋の真ん中にあったとされ、東西に8千キロ、南北に5千キロの広大な大陸だ。北はハワイから東はイースター島、南はニュージーランドまでも含んでいた」
じいちゃんの話はどうしていつも時間と空間が錯綜しているんだろう。
「そのムー大陸に、大鼻族がいた。この大鼻族は、空間認識に特別の能力を持っていた。たとえば、大きな石で建物をつくるとする。大鼻族は、瞬時に建物の概要を描き、使われる石をパーツに至るまで想像することができた」
「すごいや。設計図なんていらないね」
「そうだ。だから、何も残っていない」
「何も残っていないのに、どうしてじいちゃんは大鼻族のことを知ってるの」
「ハ、ハ、いい質問だ。実は、大鼻族の末裔と知り合いなのだ。ムー大陸は、一日と一晩で海底に沈んだとされているが、わずかだが生き延びた種族もいた。そのなかに耳長族と大鼻族も入っていた。でもな、1万2千年の時は、大鼻族の鼻を少しずつ小さくしていった。それと同時に空間認識の特異な才能も薄れていった」
「それじゃ今では誰が大鼻族か分からないじゃん」
「ところが小さくなったといっても、普通の人と比べると、やはり、大きい。これが一つの目安になる。それともう一つ、目安がある」
「もう一つの目安?」
「大鼻族は計算が苦手なのだ。ところで、キョンキョン、指は何本ある」
「5本と5本で10本だけど」
「大鼻族にとっては、数字はここまでだった。11になると、たくさん。20も100も、たくさん」
「だから?」
「だから、大鼻族の末裔を探そうと思ったら、鼻が大きくて、計算に弱い人を探せばいいことになる」
おれには、じいちゃんが大鼻族に見えてきた。

 

 

知の系統樹

中学生のとき、はじめて「進化の系統樹」の図を見た。

海の中で生まれた命が、何億年という時の中で分化し、さまざまな種に枝分かれしていくというあの図。中学生のぼくには、なぜか感動的でさえあった。

中学の頃、ぼくは学校の校門を出るとまったく勉強しなかった。勉強は学校で、と決めていた。その理由はこうだ。

教室でみんな同じ授業を受けている。それで中間試験や期末試験がある。家へ帰ってから勉強することは、カンニングしているのと同じじゃないか。試験は授業をどこまで理解したかを試すものだろう。家での勉強は、クラスの共通の土台を壊してしまう。そう考えていた。

そのかわり授業には集中した。教師の話を一言も聞き漏らすまいとノートもとらずに聞いた。授業が終わると、顔は上気して火照っていた。

そんなぼくが「進化の系統樹」と出会ったのだ。

そのうちに「知の系統樹」という漠然としたイメージがわいてきた。ぼくたちは成長する。成長するにつれ、さまざまな知識を得る。今は国語や数学や理科、社会といったものだが、もっともっといろんな知識を得るだろう。そして、一人一人が自分だけの知の系統樹を作るのだ。

なんとなく階段を一段上った気がした。

で、話は飛躍するが、高校受験の時、ぼくは学生服の胸ポケットに鉛筆を三本さして出かけた。消しゴムは持たない。参考書も、もちろん教科書も持たない。

こうして15歳のぼくは、高校生になった。

 

写真は家の庭に咲いた彼岸花

日当たりが悪いので心配していたが、なんとか彼岸に間に合った。

 

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島原幻想

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霧に浮かぶ島原と雲仙普賢岳

その普賢岳は今から30年前に爆発した。山頂付近に溶岩があふれ、盛り上がり、ある時溶岩の塊が山腹を流れ下った。火砕流と言われるものだ。消防団の人や市民、それに火山研究者の方も亡くなった。

ぼくたちが天草に引っ越したのは、その翌年だったか。風向きによっては車の屋根に火山灰が積もったりしていた。

普賢岳はおよそ200年前にも噴火している。この時は、眉山が崩壊して対岸の天草や熊本方面にまで津波が押し寄せた。

ぼくが生まれ育ったのは、天草の松島町というところだが、ここには「仏島(ほとけじま)」と呼ばれる島がある。噴火や津波で亡くなった人たちをこの島に集めて海岸に埋めた。以来、島の名前は「仏島」なのだと、これは父から聞いた。

それからさらに200年前、1637年『島原・天草の乱』が起こった。

島原、天草で30000人を超える人たちが殺された。人口が減ったこの地方に移住政策がとられ、主には四国から移住者が来た。島原はそうめんが有名だが、おそらく四国からの移住者が伝えたのだろう。

ぼくの祖父は、船大工だった。これも、その時の移住者の末裔かもしれない。

その乱から約50年前、1589年、天草では合戦が繰り広げられた。「天正の天草合戦」という。秀吉の命を受けた加藤清正小西行長の軍が本戸城を攻めた。

この時の様子を宣教師ルイス・フロイスの『日本史』はこう伝える。


「その日行なわれた攻撃はあまりに頻繁であり、城中の人々は、労苦、および連日に渡る徹夜のために疲労困憊し、ついに敵は城壁の一辺を壊すにいたった・・・。
 戦局がこのような状態にあって、すでに極度の危険に瀕していた時に、籠城していた婦人たちは驚嘆すべき行動を示した。それは日本において長年にわたり、崇高な行為、また偉大な賛辞に価するものとして語り伝えられることだろう。
それは次のようであった・・・。
城主ドン・アンドレとドン・ジョルジの妻女、およびその娘や息子の嫁たち、またその他の貴婦人たちは、すでに自分たちの夫や親族のあるものは傷つき疲労し、また他のものは戦死を遂げてしまい、もはや人間的に救われる道はなく、しかも武器を手にして対処するしかないことを知ると、三百人ばかりの婦人たちは集合し、自分たちが直面している切迫した危険を明白に認め、女性としての本来の弱体と臆病さを忘れ、勇敢な女侍のように全員が一丸となって戦局を盛り返し、自ら力の限りを尽くして敵に抵抗しようと決意した・・・。」

 

フロイスは続ける。
「彼女たちはその目的で武装し、すでに疲労し負傷している息子や夫たちの前方に進み出て、死ぬまで戦い、あるいは敵から勝利を勝ち取ろうと健気にも覚悟した。かくして彼女たちはほとんど全員がすでに告白をすませ、娘であると既婚者であると寡婦であるとを問わず、より自由に、妨げられず戦えるようにと全員が髪を断ち切り、その長衣が邪魔にならぬようにと、慎み深く裾を必要なだけからげた。あるものは鎧をまとい、他のものは太刀を帯び、またあるものは槍とか、その場で入手できた種々の武器でおのおの身を固めた。大勢のものが冑をかぶり、コンタツのロザリオや聖遺物を頸にかけた。彼女たちの多くは、泣きじゃくり涙にくれる乳飲み子や子供たちを家に残していたが、母性愛をも忘れ、全員は挙ってイエズスの御名を唱えながら、勇猛心を奮い起こし、最大の激戦が展開している戦場を目指してまっしぐらに突入した・・・。」

 

なんだろうね、人間って。

普賢岳を見ながら考えてしまいます。

 

 

 

 

不安定ということ

8月17日、東京で暮らす娘が、調査旅行のはじめにまず、我が家に来た。

4泊して、先日、島原へ行く娘を鬼池港まで送っていった。鬼池と島原・口之津の所要時間は、約30分だ。両港を同時に立ったフェリーはほぼ中間点ですれちがう。娘は10時45分発のフェリーに乗るということだった。この写真は11時過ぎ、上島の志柿あたりで撮ったもの。鬼池口之津双方から出たフェリーが、有明海の洋上で出会おうとしている。

 

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八月の半ばころから天気が不安定になった。晴れているかと思うと雨が降り出す。

それとともに、日中は暑いものの、朝夕の気温が下がった。朝起きだした娘はさかんにクシャミをしていた。これが8月18日の朝のこと。

不安定になったのは、天気ばかりではない。

日本と韓国の関係がぎくしゃくし、限りなく不安定になった。呼応するようにテレビなどのマスメディアは、嫌韓を煽る。完全な洗脳だ。結果、内閣支持率が50%を超えたと報道する。一体、だれが責任をとるのか。先の戦争のように今回もまた、だれも責任をとらずに済ますつもりか。はっきりさせよう。この責任の一切は安倍内閣にある。

 

ぼくは少し前から、アベのことをゾンビだと思ってきた。いいやアベだけではない。アソウもニカイもコウノもイナダも、ゾンビにほかならない。つまりはゾンビ内閣なのだ。彼らの目的は、知性などとは対極にある情念の泥沼に日本人と言われる人たちを引きずり込むことだ。

 

 そんな内閣はつぶせばいいではないか。ところがそう簡単にはいかない。

戦後74年が経った。ぼくは1951年、昭和26年の生まれだが、まさに戦後教育の真っただ中にいた。平成の時代の天皇が皇太子だったころ、美智子との結婚式は日本中のテレビで放映された。小学1年か2年だったぼくは、町で数少ないテレビで見た記憶がある。その後、中学2年の時に島に橋が架かった。いわゆる天草五橋と呼ばれるものだ。橋の開通式は、秋だった。ここに白バイに先導された昭和天皇が来た。ぼくらは学校で日の丸の小旗を作った。

「赤い丸は半紙の真ん中でなく、少しだけ前に描くように」と教師は言った。「なぜなら日本という国が少しでも前進するようにと願いを込めるからだ」

 

彼らは周到に準備し、実行した。そして、もう大丈夫だと言わんばかりに最近では露骨になった。来年のオリンピックを経て、積年の夢だった憲法改正へと突き進むだろう。

こんな情勢の中、立憲の枝野は、反ゾンビとして結集するのではなく、自衛隊、安保、天皇制で共産党とは大きな違いがある、とのたまう。

 

8月最後の今日も天気は不安定で外はまた、雨が降り出した。

 

八月に

八月になった。

今日は、74回目の広島原爆の日

このあと、長崎原爆の日が来て、15日の敗戦の日と続く。

しかし、ぼくの中ではここで終らない。

1979年9月9日、当時住んでいた埼玉県で、一人の在日少年がマンションから飛び降りて自殺した。間もなく40年になる。

在日朝鮮人ということでの、いじめが原因だった。

ぼくたちは『九日会』という市民グループをつくった。在日の現状と韓国・朝鮮についてもっと知りたい、と思った。ぼくは、亡くなった少年のお父さんと一緒に働いた。約一年間、少年のお父さんとビル掃除の仕事をした。いじめた日本人に代わって謝りたいと思った。

家には在日1世のハルモニがいて、よくスジ肉の煮込みをごちそうしてもらった。ホルモンの意味もそのころ知ったように思う。

「関西では捨てることを”ほうる”と言うそうだ。だから捨てるものということで”ホルモン”」

 

それから40年経って、アベの馬鹿は嫌韓を煽る。学習しないどころか逆行している。まさにゾンビそのものだ。アソウやコウノ、ニカイにイナダもゾンビとしか見えない。つまり、ゾンビがこの国の政治を乗っ取ったのだ。

 

台風が東から来て、通り過ぎて行った。

夕方の空には、五日月が顔を出した。

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バンカラということ

先日、車の運転中に、吉田拓郎、詩・曲の「わがよき友よ」が浮かんできた。

かまやつひろしが歌っていることが多かったとも思う。

 

  ♪下駄を鳴らしてヤツがくる

   腰に手ぬぐいぶら下げて

   学生服にしみ込んだ 男の匂いがやってくる

 

以下はバンカラについてのぼくの勝手な解釈。

バンカラは、ハイカラに対してのアンチテーゼだろう。時代は、大正末期から昭和の30年くらいまでだと思う。多くは、旧制中学や旧制高等学校が舞台である。

ということは、吉田拓郎にしても父親の時代だろう。

その間には戦争があった。

イカラさんもバンカラさんも、多くが死んだ。

あるいは、富国強兵を支えたのが、バンカラだったのか?

個人的には違うと思いたい。第一、バンカラは少数者だ。100人中、いても2,3人だ。異端であり、異邦人だ。安富歩風に言えば、無縁者ということになるかもしれない。

また、あるいは、ハイカラはその多くが女性で、バンカラは男、という区別だったのか。

バンカラのバンは、野蛮の蛮だろう。その蛮族の男がハイカラな女性に声をかけられる。

 

   ♪かわいいあの子に声かけられて

    ほほを染めてたウブなやつ

   ・・・・・・

いまでは死語になったバンカラだが、どこか懐かしさを覚える。

しばらくは車に乗るたびに思い出しそうだ。

 

写真は、今日の千巖山からの眺望。夏の雲仙普賢岳

 

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第36回天草環境会議

環境会議がカウントダウン段階になった。

ぼくは先週の末から苓北へ通って、回数と日付の書き換えをしている。

結構数が多いのだ。道路端に三か所、これは二枚を組み合わせて立てる。建物の壁につける横型のものが三枚。

Aコープに一枚。会場入り口の看板と会場内の壇上に吊るすものなど。

どれも36回の時の経過を物語るものばかりだ。

写真はAコープに立てるもの。90センチ×3メートル。

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