ドシ(友達)ということ

 

 天草で、ぼくの父親世代は、友達のことをドシという。ちなみに父は、大正11年の生まれだ。今生きていたら、97歳ということになるが、12年前に亡くなった。
 父親の口から幾度となく「ドシ」という言葉を聞いた。聞くうちに、ドシの語源は「同志」ではないかと思うようになった。中学生のころだったように思う。なにしろ、「トゼン」の言葉が残っている土地だから、「同志」が残っていても不思議ではない。ちなみにトゼンは、徒然と書く。天草で「トゼンなか」というと、寂しいを意味する。
それにしても同志とは穏やかではない。たとえばそれは、江戸末期の「尊王攘夷」を掲げた志士を連想してしまう。
 でも、待てよ、と思う。同志が志しを同じくする者だとしたら、それは単に友達以上のものではないのか。

 ぼくの想像は、ここから山本太郎が4月に旗揚げした「れいわ新選組」へと跳ぶ。
 家には山本太郎のポスターがあちこち貼ってある。そのポスターには、「山本太郎となかまたち」とある。なかまたちねぇ。小さな違和感があった。
仲間はグループをつくる。友達にしても同じだ。そして、グループは対立を生む。仲間とそうでないものたち、友達と反友達。
  同志はどうだ?重要なのは志しであって、それは、仲間や友達の枠を超えるものではないのか。

「れいわ新選組」には、「れいわ新選組と同志たち」がふさわしいでのはないか、と思ってしまう。

 

お祝い月間

 今日は、カミさんの誕生日だ。

 で、この前の18日が、ぼくの誕生日だった。生まれた年は、1951年と同じ。カミさんは、基本、東京育ちだ。基本、と書いたが説明すると結構ややこしい。

 

 カミさんの父親のノブヨシさんは、山梨の生まれだ。ノブヨシさんは、「神童」と呼ばれていたらしい。それで、山梨出身の実業家、望月軍四郎の書生として東京へ出て、早稲田大学に入った。ところが、学生運動にかかわったとして、早稲田を退学になる。彼は早稲田から中央大学へと移った。大学卒業後は、満鉄で働いたと聞いた。東京の荻窪に邸宅があり、お手伝いさんもいたのだという。子どもはカミさんも入れて7人。末っ子のカミさんだけが静岡県沼津で生まれている。これは、1945年の日本の敗戦が関わっているだろう。ノブヨシさんは、沼津ではコロッケを作って売っていたとも聞いた。

 やがて、一家は東京へ引っ越す。引っ越し先は東京の府中市だった。カミさんの東京生活の始まりだ。以来カミさんは、高校生までを府中で過ごした。

 その高校生の間に「民青同盟」に入り、18歳になるのを待って、共産党に入った。

 ぼくと初めて会ったのは、ぼくもカミさんも20歳の時だったか。共産党の活動にも疲れが見え始めていたように思う。大学で、ゼミのような、マルクーゼの著作をテキストとする12,3人の教室だった。人数が少ないこともあってみんながすぐに親しくなった。大学近くの喫茶店によく行った。

 

 つづく・・・

 

母親のこと

 

 母は昭和2年、鹿児島県枕崎の生まれだ。名前は、スミという。名前のとおり、末っ子だ。戸籍上の誕生日は3月28日だが、10歳上の姉が言うには、お前が生まれた日には雪が降っていた、のだと。当時はそんなものだったのかもしれない。生まれてからひと月、ふた月経って、もう、大丈夫そうだというので役場に届ける。

 現在92歳の母は、洗濯をし、カボチャとジャガイモの煮物を作り、なんとか一人で暮らしている。

 夏まではそれほどの変わりはなかった。しかし、秋が始まるころから急速に老化が進んだ。なにしろ腰が90度以上曲がっていて前を向いて歩けない。前が見えないからぶつかる。車に乗ろうとしてドアにぶつかる。スーパーでカートを押していて陳列棚にぶつかる。
 先日行ったかかりつけの医者からは心臓の弁の一つが硬くなっていると言われた。さもありなんと思う。なにしろ90年以上動き続けてきた心臓だ。医者は続けて言った。このことでどういう症状が出るかというと、突然、目の前が真っ暗になって倒れる、つまり、意識喪失です。それを聞いたのが10月の初めだった。以来、これまで息子クンとぼくとで水曜日と日曜日、週に2回行っていたのをできるだけ一日おきに行くようにした。

 

 ところで、枕崎の母がなぜ天草まで来て、役場に勤めていた父と結婚することになったのか。
 これは、15歳以上歳が離れた母の長兄にまでたどらねばならない。この長兄は、料理人だった。それも満州で。店には兵隊たちが来ていた。その中に天草出身の兵隊がいて、長兄はこの兵隊と親しくなった。そして、自分の妹をこの天草の兵隊に紹介することになる。その妹が、ぼくにとっては叔母になる、母の10歳年上のテルさんだった。まだ太平洋戦争が始まる前のことだ。
 叔母は、三人の子の母となった。三人とも女の子だった。
この叔母の夫は、天草で青年たちに軍事訓練などをしていたと聞いた。しかし、戦局が悪化し、叔母の夫も徴兵されることになった。送られた先は、沖縄だった。そして、戦死。詳しいことは何もわからない。ただ、戦争へといった夫は、二度と帰ってくることはなかった。家には歳をとった両親と聾啞のおじさん、三人の娘が残された。


 戦後、叔母のもとを二度、三度と母は訪ねている。叔母の近所に父の同級生がいた。三角駅の駅長を務めたシズオさんだ。おそらく、このシズオさんが父と母との橋渡しをしたのだろう。


 昭和25年、母は父と結婚した。この年は祖父の孫市さんが亡くなった年でもあった。

 そして、翌年、ぼくが生まれた。

何を歌おう

   

何を歌おう
収奪され 抑圧されて
貧困と絶望の中で死んでいくものたちの慟哭の歌か

 

派遣や有期雇用の言葉が生まれ
生産性が叫ばれ 成果がすべてだといわれ
いつしか労働が喜びでなくなった労働哀歌か

 

基礎研究はないがしろにされ
明日の夢より今日の金と
文系さえも軽んじられる
貧しさゆえに結ばれることのなかった 恋の歌か
それとも 新しく生まれた生命の歌か

わたしたちは悲惨な時代を生きている

 

わたしは歌う
せめて歌い続けよう
それでも負けないものの歌を

 

写真はツワブキの花。

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病院のベッドの上で

11月1日から『大陶磁器展』が始まり、ぼくは会場ロビーで幾人かの手作り作家の人たちと竹トンボやその他もろもろを販売することにしていた。

今年は前々から嫌な予感がしていた。

秋以降、いまだ何とか一人暮らしを続けている92歳の母親が急速に体力を落としていたこともあった。

9月にはすっかり人がいなくなった海水浴場で泳いでいる母子三人組と会った。上の女の子は三歳くらいで、全裸だった。ぼくが流木の丸太を拾って帰ろうとすると、母親が声をかけてきた。

「なんに使うのですか?」

「なに、やはり流木で作ったテーブルや椅子の脚にするんです」と答えると、

「あら、面白そう。展示するんですか」と興味ありげに聞いてくる。

「11月に大陶磁器展があるでしょ。そこの会場のロビーで、何人かと一緒に・・・たぶん・・・」

もう一回は10月になってから、サオリちゃんの両親が結婚のあいさつに見えた。サオリちゃんは一週間後に結婚式を控えていた。

「先生(カミさんのこと)には節目節目にほんとうにお世話になりまして」

帰り際、竹トンボがお母さんの目に留まった。

「これは売り物ですか」

「ええ、11月の大陶磁器展で・・・たぶん・・・」

そう、ぼく自身が半信半疑だったのだ。

あったのは、ぼくの入院だった。

10月26日の朝から下血があった。民医連のふれあいクリニックに行ってみた。院長さんとは会議などで顔を合わせる顔見知りではある。ぼくが現状を簡単に説明すると、じゃ、ベッドに横になってください…壁を向いて…お尻をこちらに向けて…ズボンを下げますよ…力を抜いてください…。かれは肛門に指を突っ込んだ。ふむ、出血している。この後すぐに地域医療センターを受診してください。紹介状を書きます。

そのまま、医療センターに一週間入院した。昨日、退院してきた。

カミさんはもとより、いろんな人に迷惑をかけた。

嫌な予感が当たったことになった。

 

 

災害列島

むかし、中学生の時だ。憲法の勉強をした。

夏休みの宿題が、憲法の全文をノートに書き写すことだった。憲法の中に「軍隊はこれを保持しない」とあった。ちょっと待て、自衛隊は軍隊じゃないのか?素朴に疑問に思った。

そのあとにぼくが思ったのは、自衛隊ではなく、「災害救助隊」と名前を変えてはどうか、ということだった。

なにしろ、災害列島の日本だ。地震はある。火山は爆発する。台風は毎年必ずやってくる。もちろん現在でも自衛隊は活躍されている。しかし、もっと災害救助に特化した組織があってもいいのではないか。いや、この災害列島には戦闘機やイージスアショアなどよりもはるかに必要なものだ。

来週、二つの台風がまたまた関東を狙っている。

 

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台風被害

台風19号がまた関東を襲う。

千葉の被災地がまたまた被害に合う。

今日、空気がヒンヤリとしてきた。これは、大陸の高気圧が勢力を強めている証だ。台風は東寄りに進路をとるだろう。12日土曜日が関東襲来の時となるだろう。台風の進路の右側にあたる伊豆諸島でも被害は大きくなると思われる。

政治の無能が、また、晒される。

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